Chapter1:(序章)「肉塊」

鼻をつくような生臭い匂いで、春原透は自分が踏みつけたものが人間の肉塊であることが理解出来た。

小椋出版の新書編集部で働いている春原は、TVタレントが書いた「骨盤ダイエット本」の出版打ち
上げパーティーに出席した後、駅前のロータリーでタクシー待ちをしていた。

40代になった春原は、現在の自分の仕事に疑問を感じていた。かつての小椋出版は自然科学のハー
ドカバー本「天使の標本」「物の怪の食卓」などの名著を発表していた。これらの本は、全て洋書の翻訳
本だったが、巷に溢れる怪しいオカルト本とは違って、分子生物学的なアプローチの正確さが学会でも
話題になるほどだった。

近年はパソコンや携帯電話の普及により、若年層を中心に読書離れが加速したせいもあるのだろう、
書店で平積みにされるのは、コミックや敷居の低いライトノベル、脳力トレーニングやダイエットのような
実用本が主流を占めていた。彼にとって現在の仕事は嫌いではなかったが、もっと刺激的な書物に関
わりたいと思っていた。大学で有機合成化学を研究していた春原は、昨年の暮れに、大手出版社に勤
める友人にフリーサイエンスライターに転向しないか、と誘いを受けていたのだ。

物思いにふけながら春原が愛用の「LARK」に火をつけようとした時、駅ビル前の車線から鈍い衝撃音と
共に日産の白いインフィニティがロータリーに突っ込んで来た。車は大きくターンし、春原のいる歩道に
乗り上げて停車した。

「ざけんじゃねぇよ!・・・昨日ローンを組んで買ったばかりなんだぞ!」
目の前でサラリーマン風の運転手が飛び出してきて、ボンネットやフロントガラスの損傷を見て激昂して
いた。あまりの狼狽ぶりに飲酒運転を疑ったが、男の吐く息からアルコールの匂いは感じられなかった。

「きゃああぁぁっ」

「こ、子供の死体が・・・・やだぁ、首が無い」

駅ビル前の街灯が、向かいの証券会社のビルに、悲鳴を上げる複数の女性の影を映していた。
何らかの接触事故があったのは間違いなかった。しかし、
タクシー乗り場からその現場を直接見ることは
出来ない。ロータリーに
いた者全員が事故現場を確認するために、駅ビルの方に走り出した。

春原が肉塊を踏んだのはその時だった。

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深夜の駅前大通りは、通行人こそまばらだったが、後続の車を次々に停車させ渋滞になっていた。
春原は、被害者のものと思われる車椅子の散乱したパーツを見て、胸騒ぎを感じていた。直感的に、自分
がこの事故に関与しているように思えたからだ。道路の真ん中で首の無い死体を抱えてうずくまる少女の
姿が目に飛び込んできた。春原は予感がすぐに現実になったことに愕然とした。

車椅子の持ち主らしき子供の死体からは頚椎が飛び出していて、腸の一部がだらりと垂れ下がってい
た。死体とそれを抱える少女は、同じ小学校の制服を着ていた。

「森崎・・・・」

死体を抱えていた少女は、顔見知りの「森崎空」だった。春原が20年前に編集を務めた『影の構造(上巻)』
という本に異様な関心を持っていて、彼女は何度も編集部を訪ねてきた。この本は、ある事情により発売中止
が決まり、書店に並ぶ前に全て回収された筈だった。森崎はこの本の上巻を所持していただけではなく、
問題の
(下巻)の内容について触れていた。この本の著者は下巻の原稿を書き上げる前に他界している。
存在する筈が無い本の内容を何故この少女は知っているんだ・・・・

「降ってきたんだよ・・・空から」

春原が振り向くと、青褪めた顔の車の運転手が立っていた。最初は何を言ってるのか意味が理解出来なかっ
たが、ただの交通事故にしては死体の状態や、車椅子の落下位置が不自然であることに春原は気がついた。
夜空の暗闇に紛れてよく見えない駅ビルの上層を見上げていると、雨粒が目に入り春原は一瞬視界を失った。

どこからか救急車のサイレンが鳴り響き、散乱した死体の肉片も全て回収されるだろう、と現場に居合わせた
誰しもが思った。ところが再び悲鳴が上がり、午前2時を回った駅前大通りは更に騒然となった。

死体はもう一つあったのだ。

しかも、森崎空がその死体から砕けた大腿骨を引き抜き、肝臓などと一緒にショルダーバックに詰め始めた。

春原はそのバックから長い毛髪がはみ出していることに気づいた。人間の首があの中に入ってると言うのか。
当初は、森崎もこの事故の被害者のように見えたが「影の構造」の編集者だった春原には、すぐにそれが
間違いであることが判った。彼女はおそらくここで惨劇が起きることを事前に知っていた。餓鬼のように死
体を掻き集める目的でわざわざ姿を現したのだ。

「あいつ・・・・」

春原の気配を感じた森崎空は、獲物を奪われまいとする猫のように後ずさりし、血に染まったショルダー
バックを抱え直すと、踵を返して走り出し、降りしきる雨の中に消えて行った。

 

Chapter2へつづく

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