Chapter2:「ソクラテスの血」 

2011年1月12日(水曜日)

「ゴホッ、ゴホッ・・・・」

十全堂小学校の5−Aクラスの篠美月は、今年になって肺の病気を患っていた。
重い咳と呼吸困難などの症状が長期にわたって続き、かかりつけの医師に大学病院での精密
検査を勧められた。

胸部CT検査の結果は、思わしくないものだった。肺に輪郭のはっきりした影が映っていたのだ。
まだ肺がんと断定されたわけではないが、
再検査の結果次第では手術が行われる予定になっ
ていた。吐き出した血痰を見る度に美月は暗い気持ちになっていた。

(自分は大人になる前に死ぬかもしれない)

検査の期間中も美月は午前中は学校へ登校していた。担当医が処方した薬で症状が緩和され
ることはなかった。自宅で大人しく寝ているのが嫌いだった美月は、症状が出にくい午前中は
授業を受け、昼過ぎには下校していた。今日も彼女は播磨山公園前のベンチで何台もバスを
乗り過ごして考え事をしていた。

学校の裏側にある播磨山公園は、小高い丘陵の上にある市立公園で、住宅地が一望出来る
景観の良い場所だ。十全堂小学校の生徒にとって馴染みの深い場所だったが、去年の春に
起きた忌まわしい事件によって生徒の立ち入りが禁止になっていた。

『播磨山13児童死体遺棄事件』・・・それは、関東地方の広域を巻き込んだ怪事件だった。

閑静な住宅街の中央に位置する丘陵地で、首が切断された13人の子供の遺体が発見された。
検死の結果、ほとんどの遺体が、東京に隣接する関東各県で数年前から行方不明になっていた
児童であることが判った。被害者の中にに十全堂小学校の生徒はいなかった。公園周辺では、
市の自治体によるパトロール、マスコミの報道関係者などが頻繁に出入りしていた。

美月の母親は自家用車で娘たちを送迎していたが、見通しの悪い通学路で接触事故を起こして
以来、バス通学の方が安全だと判断した。美月もそれを特に不便とは思っていなかった。

(美月が心配だから、私も早退する。一緒に帰ろう)

双子の妹・日出子が手話を使って話しかけてきた。日出子は先天性の聴覚障害者だった。常に
愛嬌のある笑顔で美月にまとわりついていた。何かとお荷物な存在のためにクラスのイベントなど
で二人だけ仲間はずれにされることがあった。そんな時に美月は妹をうとましく思った。日出子
美月と一緒に帰りたがったが、毎日そんなことをしていたら、クラスの中でますます浮いてしまう。
寂しげな顔で見送る日出子を後にして、美月は一人で下校した。

「ゴホッ、ゴホッ・・・・・グボッ・・・・」

六台目のバスを乗り過ごした後、突然、彼女は喀血した。歩道が点々と赤い血に染まり、美月
それを隠すように前屈みになって口元を押さえた。喀血は初めてではなかった。しかし、こんな所で
吐いたら大騒ぎになってしまう。日出子を連れてこなくて正解だと思った。気の弱い妹はパニックを
起こして泣き出したかもしれない。上手く発声が出来ない彼女の泣き声は子供のものとは思えない
モンスターのような奇声なのだ。
美月は日出子の泣き声が嫌いだった。

美月が立ち上がろうとした時、彼女は額に冷たい手の感触があることに気づいた。熱を測るような仕草
で目の前に立っていた少女は
5−Bクラスの森崎空だった。

美月は血だらけの醜い顔を見られた恥ずかしさのあまり、その手を振り払ったが、その勢いで再び
喀血し、空の紺色の制服を赤い血で染めてしまった。

「あっ・・・・・・」

美月は慌ててハンカチを取り出し、空のスカートを拭こうとした。しかし、彼女はその事に全く興味を
示さずショルダーバックから定規を取り出して、四つん這いになって、美月の「影」の長さを測り始めた。

去年から森崎空は連日学校に来ない日がある、という噂は聞いていた。美月は同じクラスになったこ
とが無いので彼女とは一度も会話したことが無かった。

「何をしてるのよ・・・・?」

ハンカチで口を拭きながら、美月は空の不可解な行動を観察していた。黙々と地面を這い回るショー
トカットの後姿は餌を探している昆虫のようにも見えた。ようやく立ち上がって、空は澄んだ瞳を向け
ながら静かに話し始めた。

「呪いよ・・・・」

「えっ?」

「篠美月、あなたは誰かに呪いをかけられてるのよ・・・」

美月は呆然としていた。まるで簡単なパズルが解けなくて困っている幼児を慰めるような口調だった。
自分をからかっているのだろうか?美月が怪訝な顔をしていると、空はそれを見透かしたかのように
微笑んだ。不思議なことに彼女の笑顔には悪意が全く感じられなかった。

***********************************************************************************************

「Σωκράτης」

森崎空から貰った小瓶のエンボスはギリシャ語で「ソクラテス」と書いてあった。
美月は自分の部屋で、眉をしかめながら、どす黒い液体が入ったガラスの小瓶を眺めていた。

Bクラスの空とは会話をしたことが無かったが、低学年の頃に彼女の作文が教室の壁に貼ってあったこと
を思い出していた。それは将来の夢について書かれたもので、空の夢は「魔法遣いになること」だった。
一見、子供らしい作文のように見えたが、内容はウィッチ・ボトルと呼ばれる魔除けの効力を調べた実験
の経過などが書かれていて、美月の知識では難解に思えた。

その後も、彼女が播磨山で犬の屍骸を一斗缶に入れて焼いていたので補導されたという話を聞いたこと
があった。死体遺棄事件後に警察の事情聴取を受けたという噂も流れていた。空の殺人鬼説というのは、
小学生の視点から見ても眉唾ものだった。でも、妹の日出子はそれを信じていた。今日も空に会った話を
すると、青褪めた顔で怒り出した。

(あの子に関わると・・・呪い殺される。絶対に近付かないで)

手話の手を激しくパンパン叩いて忠告する日出子の様子を見て、よほど空が嫌いなんだろうと思った。
美月は「魔法」だの「呪い」だのという怪しげな存在は全く信じてなかった。そんなものが現実にあったら
カルト教団などが真っ先に悪用して世界が滅んでしまうだろう。世界が存在してるのは、そんなものがあ
りえない証拠なのだ。

「ソクラテスの血・・・・その薬を飲めば楽になるわ」

ショルダーバックから小瓶を取り出した空は、それ以上の説明はせず、学校とは反対の方向へ去ってしまった。
美月は持ち前の好奇心から小瓶を受け取ってしまった。でも、さすがにこの事は日出子に言い出せなかった。
(薬というのは症状に合わせて処方されるものよ・・・他人が自分の症状に合った薬をいつも持ってるなんてあり
えない・・・・)美月はこの怪しい液体を服用する気など毛頭無かった。

***********************************************************************************************

再検査の前日の夜、台所から日出子の泣き声が聞こえた。
皆で揃って夕飯を食べられる事はしばらく無いかもしれない、と篠家の家族は心の中で思っていた。
美月は
食欲が無かったが、日出子も台所に立って母と一緒にご馳走を作る、と言うので、入院の準備をしながら
二階の寝室で待っていた。美月は
日出子の様子が気になって階下へ降りていった。

「どうしたの?・・・お母さん」

「あ・・・・美月、何でもないの・・・日出子が包丁でね、ちょっと指切っちゃったのよ。大した怪我じゃないの。
この子に絆創膏貼ってあげるから、
美月はもう少し部屋で待っててね」

母の話し方はいつもの口調だったが、妹が異様に脅えている様子に美月は気付いた。

「うん・・・わかった」

美月は一度部屋に戻ったふりをして、音を立てずに階段を降りてきた。二人は別室のリビングに移動していた。
リビングから日出子の嗚咽が聞こえてきた。引き戸の隙間から母の姿だけ見ることが出来た。母は日出子と会話
する時は手話だけではなく、いつもきちんと発声している。でも、声を出さずに会話していることもあった。それは
日出子を叱っている時だった。リビングからは妹の泣き声しか聞こえてこないので、美月は母の手話を確認するま
でも無く、部屋の中で何をしているのか想像がついた。しかし、母の左手が特徴的な小瓶を握っているのを見て
彼女の目は釘付けになった。それは、森崎空から貰ったエンボス小瓶とそっくりだった。

(この薬を何処で手に入れたの!)

(いつからこの薬を美月の食事に混ぜていたの!)

(美月がどんな思いでいつも血を吐いてたか、あなた全部見てたんでしょう?!)

日出子が再びモンスターのような泣き声を上げた。美月も肺に溜まっていた血が全て噴出しそうなほどの吐き気に
襲われた。

「あなたは誰かに呪いをかけられてるのよ・・・」

森崎空の言葉を思い出して、ようやく美月は自分の病気が発症した原因を理解した。日出子と空はグルだった
のだ。二人は共謀して、時間をかけながら美月を殺そうとしていた。美月が入院することになって、薬の持ち主
たちは駄目押しで大量の毒薬を自分に飲ませようとしていたのだ。

美月は目眩がした。血を吐きながら、這うように階段を登っていた。自分の間抜けさと二人の愚かさに呆れ、思わず
笑い出しそうになった。妹が自分を殺そうとする動機に思い当たる節があったからだ。
(いずれにしろ自分は助からないわ・・・でも、二人のこの回りくどい完全犯罪みたいな計画も失敗に終わったのよ。
放っておいても・・・ゴホッ・・・私は死ぬの・・・そうすれば・・・ゲホッ・・・尻尾を掴まれずに済んだのに・・・)
部屋に戻った美月は本棚の奥に隠していたエンボス小瓶を取り出した。日出子は自分を殺そうとしていた。
美月だけがその「理由」を理解していた。これは復讐だったのだ。

自分は死んでもいい。日出子がそれを強く願っているのなら後悔は無い。しかし、それに加担した森崎空だけは許
せない。頑固な性格の日出子は、母に問い詰められても真相を隠し続けるかもしれない。このまま入院して何も
出来ないで死ぬぐらいなら、空の罪を大勢の人に暴露して死にたい。自分の意識がある前に一刻でも早くそれを
やり遂げたい。美月は勉強机のメモ帳に

(私を殺したのは5−Bの森崎空)

と震える手で書き終えると、小瓶の蓋を開け動物の腐敗臭に似た匂いがする液体を一気に飲み干した。
美月は全身が腫れ、血管やリンパ節が破裂しそうな勢いで膨張しているのを感じた。やがて、猛毒が脳に達し
たのか呼吸が出来なくなり、視界の色が消え、全ての感覚が無くなった。美月の身体はその場で崩れ落ちた。

***********************************************************************************************

聞き覚えのある男性の唸り声を聞いて、美月は目を覚ました。

意識が朦朧としていたが、自分が寝ている場所が病院のベッドであることが理解出来た。
ベッドから少し離れた場所で、美月の母と担当医が顔を見合わせて怪訝な表情を浮かべていた。

「無くなってるんですよ、影が・・・跡形も無く・・・・」
担当医が唸り声を上げながらCTフィルムの説明をしていた。美月は自分が生きてるのか、死んでるのか判断出
来ない状況だった。しかし、それがすぐ現実の出来事であることが日出子の行動で分かった。泣き顔の日出子
が母の影で身を隠すようにして、こちらを覗いていたのだ。

美月はベッドに横たわったまま日出子に手話で合図した。日出子はそれに応えず、何度もかぶりを振った。

妹は美月のメモ帳をポケットから取り出した。いずれにしろ自分は死んでないので、この事を誰かに知られた
としても母は何もしないと思った。娘たちの悪夢のような確執が人目に晒されるだけなのだ。
日出子はメモ帳を指差しながら、ようやく美月に向かって話しかけてきた。

(あの薬は・・・空から貰ったものじゃない・・・)

「えっ?」

思わず美月は声を漏らした。母親と担当医がそれに気付いてベッドに近付いてきた。美月は大人がいる時に
この話は出来ないと思った。

***********************************************************************************************

美月は咳も血痰も出なくなっていた。しばらく検査入院が続いたが、担当医からすぐに退院出来ると聞いて彼
女は安堵した。退院したら日出子に聞きたいことが山のようにあった。可哀想な妹を責めるつもりは無かった。
自分の殺害に加担した犯人探しをするつもりも無かった。彼女は、純粋に森崎空の薬に関心があったのだ。

車で迎えに来た母は不慣れなハンドル操作で右折する度に何度もクラクションを鳴らした。明らかに母はイラ
イラしていた。後部座席に一人で座っていた美月は異常なスピードで走る車の中で考え事をしていた。

美月の入院中に聴覚障害のある妹の捜索願いが出されたらしい。日出子が忽然と姿を消したのだ。

篠家の車は、警察犬を連れた大勢の捜査員の間を縫うようにして自宅の車庫の中に入っていった。親子は
暗い車庫の中でしばらく車から降りる気分になれなかった。美月は車庫の入り口から漏れる微かな光の一点
を見つめていた。

日出子の行方は、森崎空が知っている・・・・・美月はそう確信していた。

 

Chapter3へつづく

INDEXへ戻る