Chapter10:「殺意」

深紅の夕陽を眺めながら、幼い二人の少女が児童公園のジャングルジムの天辺から飛び降りようとしていた。

「ねぇ、玲於奈・・・生まれ変わったら何になりたい?」

「私は渡り鳥のアジサシよ。鳥になって世界中を何万キロも旅をするの・・・空は何になりたいの?」

「私はハリモグラがいいな・・・哺乳類なのに卵を産むのよ、すごいでしょう」

「えーーーっ、モグラはやだよぅ・・・・いつも土の中にいて、ミミズとか食べるのよ」

「鳥だって、ミミズを食べるから同じだよ」

「一緒にしないでよ。私はアジサシになってもミミズは食べないわ」

「虫は食べられるの?」

「虫も食べない!」

「それじゃ、食べるものが無くて、すぐに死んじゃうよぉ」

二人が飛び降りを躊躇しているところへ、マタニティ仕様のワンピースを着た空の母親・香澄が現れて二人を
呼んだ。妊娠8ヵ月、もうすぐ空はお姉さんになる予定だった。

「空ーーっ、もうすぐ、お夕飯にするから帰ってきなさい。玲於奈ちゃんもおいでーーっ、今日のおかずは二人
の大好きなカニクリームコロッケよ」

空と玲於奈は顔を見合わせた。

「動物になったら、カニクリームコロッケが二度と食べられなくなっちゃう・・・」

「それは大きな問題だわ・・・・・「生まれ変わり」ごっこは中止よ・・・・」

「うん・・・やめよう!」

二人の少女はキャッ、キャッとはしゃぎながら、ジャングルジムを降りて、香澄の後を追いかけて行った。

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春原は玲於奈が撃たれた場所に駆け寄り、橋の上から貯水池を見下ろしていた。そこへ、黒のレザージャケットに
黒のサングラスをかけた安曇恭太郎が近寄ってきた。

「大丈夫ですよ。急所は外してあります」

「安曇・・・・貴様!」

稲森妙子は春原の異様な殺気を感じて後ずさりした。これから大人の男が殴り合いでも始めるのだろうか?
サングラスの男はライフルの銃口を春原に向けていた。

「春原さん、無茶しないで下さいよ。あなた方が、この子を僕のラボから連れ出さなければ、影が逃げ出す事は
無かったんだ・・・生きている人間の影は宿主から切り離されると、とても不安定な状態になる・・・操影法を完成
させる為には、この問題をクリアしなければいけないんです。それなのに・・・」

「お前が、この子の影を燃やしてしまったんだろう!」

「いいえ・・・あれは僕の指示ではありません。覆面を被った連中は、公安庁から派遣されている山際健司という
男が率いているグループですよ」

「山際・・・・・確か、13人の子供の遺体を山に埋めようとしていた・・・あいつか?」

「あの男は、僕と春原さんがイマイチ結束出来ていないことをいい事に、プロジェクトの主導権を握ろうとしていま
す。僕の意向を無視して勝手な判断で行動しているので、いずれ潰すつもりですよ。子供の遺体にイタズラして
いた、という報告を受けた事もあります・・・影を燃やしたのも彼の部下です。僕にとっては、行方不明だった影が
宿主の元へ戻った方が都合が良かったんです・・・・」

「森崎空を狙ったのもお前の指示じゃ無かったのか?」

「操影法の鍵を握っている森崎空に手をかけるような馬鹿な真似はしませんよ。彼女は春原さんから教わらなくても
「影の構造」の下巻の内容を詳しく知っていたようですね。僕も下巻の原稿は殆ど読んでますが、肝心の「カドラプ
ル操影法」の章は原稿自体が存在しない。おかげで、開発に時間がかかってしまっている。そもそも、あなた達が彼
女に内緒でコソコソやっているから、こんな面倒な事になったんですよ・・・・篠日出子はラボに連れて帰ります・・・
異論は無いですね?」

「待て!安曇・・・その子は影が無いんだぞ・・・・どうするつもりだ!?」

「春原さん、僕の目的は人殺しじゃありません。出来る限り、彼女の治療は続けます。セフィロトの医療レベルでは
不十分なんです・・・あなた達が救えるのは、たった今、僕が銃で撃った子です。急所は外しましたが、水面に浮か
んでこない・・・このまま放置すると溺死するかもしれません」

橋の下を覗いていた妙子が春原に向かって囁いた。

「私が助けに行きましょうか?・・・体力には自信があります」

妙子は、玲於奈より日出子を取り戻して欲しい様子だった。

「いや、俺が行く。君は長嶺に連絡してくれ・・・これ以上、子供の犠牲者を出してしまっては元も子もない・・・」

安曇が日出子を連れてその場を立ち去ろうとした時、高所恐怖症の春原が自分に喝を入れるような奇声を上げた。
興味本位で振り返った安曇は、春原の背中に負ぶさるような形で、
幼い少女の黒い影が張り付いている事に気付
いた。

「何だ・・・・あれは?」

それは、非生体分影法によって可視化された物とは違って、明らかに意思を持っているように見えた。春原はその
怪しい影を背負ったまま勢いよく貯水池へ飛び込んでいった。

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セフィロト病院の急患搬送用入り口の扉が開き、玲於奈を乗せたストレッチャーが収容された。

「理事長!どいて下さい」

空と長嶺は廊下の端に移動した。ストレッチャーに続いて、上半身裸の春原と、彼の上着を持ったパーカー姿の
地味な雰囲気の女性が通り過ぎて行った。

「銃で撃たれたのは、あなたの同級生の水沢玲於奈さんですよ。エントランスで空さんが襲われた時、私に連絡して
くれた子です・・・・たぶん、萩人君から保護室の場所を聞き出したんでしょう、日出子さんを連れ出す為に保護室に
火を付け、業者のワゴンを奪って逃走し、貯水池に追い詰められた時にナイフを振りかざしていたので、安曇君にラ
イフルで撃たれたそうです」

「・・・・・・・・・あいつは・・・・・・死ぬの?」

「いいえ、そんな事は絶対させません。彼女の執刀には私も立会います。必ず助けますよ」

空と長嶺は、玲於奈が運ばれた廊下を早足で歩きだした。

「日出子は・・・・結局、日出子はどうなったの?」

「安曇君が自分の研究施設に連れて行きました・・・あなたの言う通り、私と春原君は安曇君のチームから監禁されて
いる日出子さんを奪取して、この病院の中に隔離していました。私達もあの子の影を探していたんですよ。しかし、
自宅周辺では全く見つからなかった・・・まさか、連日のように妹を探し回っていた双子の姉にくっついていたとは・・・」

「影さえあれば彼女を元の生活に戻す事が出来たんだ・・・でも、もう手遅れです。あの子は必ず死亡します。安曇君も
出来る限りの延命治療を行うと言ってます・・・・・空さん、彼女の追跡は諦めて下さい。あの子の為にそうするしか無い
んです・・・」

空は髪の毛をかきむしっていた。自分が春原に少しでも相談していれば、このような事態は避けられたのだ。空は自分
の力を過信していて、それに伴うリスクを考えていなかった。春原が自分を「間抜け」と言っていた意味がようやく理解
出来た。ロッカールームに入っていく長嶺を見送りながら空は考えていた。本当に日出子は手遅れなのか?影を失っ
た人間を助ける方法は無いのか?

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玲於奈の手術は成功した。

安曇の撃ったライフルの弾は正確に急所を「外して」いた。気を失っていた為に肺に水が入ってしまったが、春原
が車に積んでいた携帯AEDと的確な胸骨圧迫、人工呼吸によって、玲於奈は息を吹きかえした。

手術後、玲於奈はICU(集中治療室)に移されていた。空は看護師の目を盗んで、その部屋に侵入していた。ICUに
は監視カメラが設置されていたが、空は事前にナースステーションでカメラの死角を確認していた。明日には玲於奈
の両親がイギリスからやって来る。何より、玲於奈が意識を回復する前に、計画を実行しなければならない。空はパ
ジャマのポケットから筋弛緩剤のアンプルと注射器を取り出した。

空は動物実験の処理の為に、春原や長嶺のルートで筋弛緩剤を入手していたが、動物に使った事は一度も無かった。
彼女はショルダーバックの生理用品を入れるポーチに、いつも毒薬・劇薬のアンプルと注射器を隠し持っていた。車に
撥ねられた時も幸いアンプルの瓶は割れていなかった。それらは、全て玲於奈を殺害する為に常備していた物だ。

酸素マスクを付けていたが玲於奈の寝顔は美しかった。艶のある長い髪は天使の翼のように広がっていた。人一倍
警戒心の強いこの女を襲うチャンスは今しか無い・・・空はアンプルの液体を注射器に移し、玲於奈の点滴に混入させ
ようとした。

その時だった。病室の照明が全て消えた。

セフィロト病院のICUは24時間消灯されることは無い。空は周囲を警戒した。計画が成功すれば、自分はどんな目に
遭っても良いと思っていたが、薬を混入した点滴が外されてしまっては意味が無い。空が病室から一旦出ようとすると、
目の前をバサバサと一羽のカラスが通り過ぎた。

(室内に・・・・何故、鳥が???)

空は照明が消えたと思ったが、それは錯覚だった。病室の壁一面にカラスや鳩、ニワトリ、犬や猫などの小動物の影が
張り付いていて、室内の照明を覆い隠していたのだ。

「何なの・・・・これは・・・・・」

空には、それらが現れた理由が分からなかった。分影法で一度にこれだけの数の影を作るのは、ほぼ不可能なのだ。
室内が暗闇に見間違うほど異変が起きているのに医師や看護師が現れる気配が無かった。監視カメラが機能していな
いならかえって都合が良い。それらの正体が影でも亡霊でも、空にはどうでも良かった。彼女は手の汗を拭いて注射器
を握りなおした。

「・・・・・・殺しちゃダメだよ」

何処からか少年の声が室内に響いた。空が振り向くと、玲於奈のベッドの傍にある心電図モニターの前に見覚えのある
パジャマ姿の少年が立っていた。彼は影では無く実像だった。

「あなたは・・・・萩人・・・・本当は死んで無かったのね?」

空は全身の力が抜けていくような気分がした。また長嶺に一杯食わされた・・・霊安室に棺桶まで用意して、実に手の
込んだ芝居だと思った。しかし、空はすぐに怪訝な表情になった。目の前の少年が宙に浮いていたのだ。萩人はクスクスと笑っていた。

「どうして私の邪魔をするの?・・・・あなたは誰の指図でこんな事をやっているのよ!」

空はこの周到なマジックのタネを明かしてやろうと、ベッドの下を覗き込んだ。

「オクだよ」

空は立ち上がって、目を大きく見開いた。

「君が幼い頃、親友のように心を許していた仔犬のオクだよ・・・・僕は彼に頼まれて、ここに戻ってきたんだ」

「・・・・・・・・・・・これは・・・・・幻覚だわ・・・・・・・・」

「僕はこの病院で一緒に遊んだ女の子ともう一度会いたい・・・オクに相談したら、玲於奈の力が必要だって言ってたよ。
玲於奈って、このお姉ちゃんの名前でしょう?」

「ふざけないでよ・・・どうしてオクが玲於奈を庇うの!?・・・こいつは抵抗出来ない動物を刃物でなぶり殺しにしたのよ!」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「もう何十匹も残忍な方法で動物を殺してるの・・・いずれ人間も襲うようになるわ・・・傷つけられた者の痛みや苦しみを十分理解した上でやっている・・・更正の余地がある性格じゃないのよ。玲於奈にとって「死」は解放なの・・・それで死者の魂が救われると本気で信じている。他者や自分を傷つける事を崇高な行為だと思ってるキチガイなのよ!」

「そうなった理由は・・・空が一番よく知ってる筈だって、オクは言ってたよ・・・・玲於奈がおかしくなったのは彼女自身のせいじゃない・・・オクは、殺された時も・・・脅えながら・・・血を吐きながら・・・それでも彼女が好きだったんだ」

空は耳を塞いで震え出した。そんな事実を受け入れる事は出来なかった。

でも、空は分かっていた・・・オクは空よりも玲於奈に懐いていた。玲於奈も空に負けないぐらい動物が好きだった。玲於奈の性格が豹変してしまったのは・・・・・彼女が自分より優しい心の持ち主だったからだ・・・

ICUに空の悲痛な叫び声がこだました。その声に気が付いた看護師が病室に飛び込んで来た。

「あなた、こんな所で何してるのっ!」

空は看護師を突き飛ばして走り去った。もう一人の若い看護師が駆け寄ってきて病室の様子を確認した。室内に特に異常は無かったが・・・玲於奈の意識は回復していたようだ。彼女は酸素マスクを外して上半身を起こしていた。

「水沢さん、大丈夫?・・・具合はどう?・・・・あなたは助かったのよ」

玲於奈は看護師の言葉には答えず、幼い頃に公園で見た夕陽を思い出していた。そして、うつむきながら呟いた。

「私は・・・あの時・・・死ねば良かったのよ・・・・」

 

Chapter11へつづく

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