Chapter14:「トランス」

1990年6月22日(金曜日)

量子力学の隠れた変数を独自の理論で解明し、アインシュタインが否定した「量子物理学」を超える新しい統一理論を定式化しようとした物理学者・安曇記章は聖セフィロト病院の理事長の職も兼任していた。彼は多忙な日々を送っていたが、休日の関心事は、自宅の庭に設置したプランターで育てている毒草のマンドレイクを害虫から護る為に、定期的に薬剤散布及び液肥を与える事だった。

彼は思想家・哲学者でもあり、その温厚な性格から人望も厚かった。彼の研究の内容をきちんと把握せずにスポンサーに名乗りを挙げる企業が現れるほどだった。彼は半年前にペンネームを使って『影の構造(上巻)』と言う一冊の本を書き上げたが、その本は倫理的な問題を抱えていて、出版はされたが全て回収されてしまった。しかし、彼はその件を全く気にしていなかった。安曇の著書の刊行に力を注いでいたのは小椋出版の方であって、回収騒ぎで危うく倒産しかけた出版社に安曇は資金援助を申し出た。彼は、下巻の原稿も殆ど書き上げていたが、編集者にもその内容を公開する事は無かった。

プランターが並んでいる庭で、野良猫が毒草に貼り付いているナメクジを食べようとしていた。安曇はその薄汚れた黒猫を抱き上げて話しかけた。

「よしよし・・・お前何処に行ってたんだ?探したんだぞ・・・随分と身体が汚れているな・・・」

猫は愛想が良く、甘えるような声を上げた。

「お腹も空いているのか?・・・この痩せ方から察するに、ろくな餌にありついてなかったようだな・・・」

安曇は猫を抱えたまま自分の書斎に戻り、卓上のベルを鳴らした。

「すまんが、実験室にハンドタオルと猫の餌になる物を持ってきてくれないか?」

安曇よりも年老いた使用人の男が現れ、頭を垂れながら答えた。

「先生・・・そろそろ千絵子様のご出棺のお時間です。密葬とはいえ、喪主がいらっしゃらないとご遺体を運び出す事は出来ません」

「分かった、すぐ行く・・・・」

安曇はYシャツを脱ぎ、喪服の黒羽二重の羽織を使用人から受け取ると億劫そうに袖を通した。

「それと、春原透の件ですが・・・公判準備手続きが済み、来週の水曜日に初公判が行われます。暫くは証人尋問の予定はござません。喪中の事でもあるので傍聴を欠席する事も出来ますが、いかがなさいますか?」

安曇は黒猫をミルク皿と一緒にケージの中に入れて、机に置かれたウッドボックスからブライヤーパイプを取り出し、タンパーで煙草の葉を詰めていた。煙草に火を点け、彼は陽射しに照らされた緑色の庭を眺めながら、使用人の問いに答えた。

「裁判所には優先傍聴を希望すると伝えてくれ。あの男がいなければ、千絵子と円香(まどか)は死なずに済んだんだ・・・・・・私は、安曇家の平穏な日々を壊した男が裁かれる様子を見届けなければならない」

年老いた使用人は何か言いたそうだったが、言葉を飲み込んで深々と一礼すると書斎から出て行った。

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春原は自分のコートに降り積もった雪を払いながら、播磨署の近くにある総合病院の廊下を歩いていた。

「あなたが犯した罪を僕は決して忘れない・・・・・」

安曇恭太郎が残した言葉がいつまでも春原の心に焼き付いていた。彼は喫煙室の近くで談話している園部と長嶺に簡単な挨拶を済ませて、空の病室の中へ入って行った。空は身体を起こしていて、いつも実験の時に使っているノートに物凄い勢いで何かの計算式を書き込んでいた。春原が何も言わずに彼女の傍に近寄ると、空は手書きの処方箋を取り出して彼に渡した。

「あいつの置き土産よ。この薬・・・全部用意出来る?」

「かなりの劇薬だな・・・これで篠美月の寿命を引き延ばせるのか?」

「無いよりはマシだと言ってたわ・・・」

春原は処方箋を見ながら、ベッドの端に座り込んだ。空には、彼が自分より体調が悪いように見えた。

「お前、何を企んでいるんだ?・・・影の移殖をしたところで、安曇が日出子の生命を救う保証は無いんだ。このままだとあの双子は二人とも助からないぞ。日出子の影を失った時に、あれだけ落ち込んでいたお前が、美月の生体分影をするなんて正気の沙汰とは思えない・・・それとも、これは何か勝算があってやった事なのか?」

「安曇にも言ったけど、私は美月にはめられたのよ・・・こんな事になる予定じゃなかった・・・日出子の捜索に人間の影は二度と使わないつもりだったわ・・・・」

「でも、美月は言う事を聞かなかった・・・・私に当て付けるように、手首を切ってみせたり、首を吊ったりして、何度も自殺未遂を繰り返したの・・・一時は出血多量で本当死にかけたのよ・・・セフィロトの長嶺が隠蔽工作してくれなかったら、もっと大騒ぎになってたところだわ・・・・死んだ人間の影は役に立たない、と説明してようやく自殺を思い止まらせる事が出来たの・・・・・でも、彼女は日出子の事を心配するあまりに情緒不安定になっていて自傷行為が続いていた・・・彼女に死なれたら、今までやってきた事が全て無駄になってしまう・・・それで、日出子の捜索を再開するフリをして、彼女の影を生きたまま保存する事にしたの」

「影を切り離された人間は長く持たないんだ・・・・お前は生体分影のリスクを考えなかったのか?・・・俺は姉の美月を犠牲にしてまで日出子の生命を救う事には賛成出来ない」

「時間が無いのは分かってる・・・でも、選択の余地は無かったのよ・・・生体分影しなければ、本気で美月は死ぬつもりだった・・・多分、身体の壊死が始まっても、日出子の無事が確認されない限り、影を元に戻す事に同意しないと思うわ・・・」

空はベッドから這い出て帰り支度を始めた。面会者が現れてから、発作的に踏切事故の記憶を思い出す事が無くなったので、その日のうちに家へ帰りたいと言い出した。医師は体調に問題無ければ帰宅しても構わないと言った。

春原はジムニーのハンドルを回しながら、助手席に座っている空に話しかけた。

「保存していた影はどうして安曇の手に渡ったんだ?・・・生体分影は結合に比べて時間がかかる・・・分影する時には野外で実験体を全裸にする必要があるんだ・・・人目を避けてよく分影を成功させたな」

「立入り禁止のグリムタウンの屋上を使ったわ・・・あそこは美月が自由に使えるから・・・影の保存は地下二階にあるテナント用の空倉庫を使ったの・・・私は、今回の影を使った捜索は保冷車の箱トラックを使うとか口から出任せを言って、地下室から一歩も出すつもりは無かった・・・まだ、双子の影を再生出来る方法があるかもしれないと思って、生きている影の構造を調べていたの・・・その最中に、背後から誰かに鉄パイプで殴られた」

「・・・・・・・・・・・・・!?」

「美月は最初から、このタイミングを狙っていたのよ・・・意識が戻った頃には彼女の影は無くなっていたわ」

春原は納得のいかない表情で、その話を聞いていた。

「お前を襲ったのは本当に彼女なのか?・・・美月の影を他の場所に移動させる為には、協力者がいなければ出来ない筈だ・・・」

「こんな、頭のいかれた計画に手を貸す者がいるとしたら・・・・あいつしかいないわよ」

「あいつ?・・・・・・・水沢玲於奈の事か?」

空は夜の車窓の風景を眺めながら無言で頷いた。

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翌日になって、春原は美月に真意を聞き出そうとして篠家を訪れたが、彼女は三井の自殺の件で再び播磨署の聴取を受けていた為に接触出来なかった。影の無い美月の余命を考えれば一刻を争う事態だったが、マスコミが三井の事件を嗅ぎ付け、再び十全堂小学校の周辺が騒然となっていた。春原はしばらく沈静化するまで東京を離れる事にした。仕事の打ち合わせで出張する予定だった名古屋行きをそれ以上延ばせないという事情もあった。彼が事務所に戻ったのは、2日後の未明の事だった。

事務所に戻った春原は、談話室の中で、散乱した子供の玩具に埋もれるような格好で寝ている妙子を見つけた。

「おい、稲森・・・そんな所で寝ていると風邪をひくぞ・・・」

妙子はハッと目を覚まして、その場にちらかっている玩具や駄菓子を片付け始めた。

「お前最近、様子が変だぞ・・・気のせいだと思うが、ここのところ、事務所に子供の気配を感じるんだ・・・この部屋にある玩具やぬいぐるみ・・・・これは、芝居で使う物なんだよな?」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

妙子はソファーに座り、床を見つめたまま、静かに頭を振った。

「どうしたんだ、体調を崩したのか?・・・・汗の量が尋常じゃないぞ・・・・」

「・・・・あの子が・・・・入ってきたのよ」

「???・・・入ってきた?・・・・何を言ってるんだ・・・・まだ寝ぼけているのか?」

妙子は春原の両手を握って、何かを訴えるように話しかけた。

「最初は・・・私のお婆ちゃんだったのよ・・・・お婆ちゃんが亡くなって四十九日法要の時に、突然私は気を失ってお母さんが生まれた頃の思い出話を始めたの・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・!?」

「その後に何度も、自分の身体に誰かが入ってくるようになったの・・・他の人の考えている事とか昔の記憶とか・・・」

「人格転移・・・・いや、チャネリングか?・・・・」

春原は半信半疑だったが、妙子の手の異常な冷たさが気になっていた。

「私も未だに原因はよく分らない・・・中学生の時に授業中に歴史上の人物の記憶が頭に入ってきた時は驚いたわ・・・それ以来、失神する度に違う人間になっちゃって・・・・、学生時代のあだ名は『イナモリイタコ』だったの・・・芝居に夢中になり過ぎて、頭がおかしくなったとか言われたけど、有名な精神科医の先生が、むしろ、芝居を徹底して習得した方がトランス状態になった時に人格をきちんとコントロール出来るようになる、とおっしゃってくれたわ」

春原は、妙子の舞台を何度か観た事があった。普段の地味な様子から考えられないポテンシャルの高さを見せつけられ、春原は彼女の才能を高く評価していた。事務所で一人稽古をする事を許していたのも、彼女がいずれは個性派の舞台女優として開花するだろうと期待していたからだ。

「あの子、と言ってたな・・・・一体、誰の事なんだ?」

「春原さんと出会った頃から、ずーっと、あなたの後を追いかけていたわ。おそらく長い間、あなたを護って来た・・・貯水池に落ちた水沢玲於奈を助けに行った時も一緒だったのよ・・・私がここで働くようになってから・・・・彼女は、私の方にも近付いてくるようになったの・・・」

妙子は、突然立ち上がり資料などが置いてある棚から関東圏内の地図を取り出し、何かの地名を呟き出した。

「砂塚町の都営団地は何処にあるの?・・・私はあの周辺はよく分らないわ・・・・」

「あそこは森崎空が住んでいる地域だ・・・おい、稲森、どうしたんだ?・・・こんな夜中に、彼女に会いに行くのか?」

「呼んでいるのは彼女じゃないわ・・・・・廃屋になっている棟に何かあるの・・・・あそこに全ての答えがあるのよ・・・」

春原は立ち上がって、妙子の両肩を掴んで身体を揺すった。

「落ち着け、稲森!全ての答えとはどういう意味だ?・・・お前がさっきから言っている『あの子』って、一体誰なんだ?」

妙子の身体が痙攣し始め、掴んでいた春原を突き飛ばし、白目を剥いて叫んだ。

「・・・・安曇・・・・円香ちゃんよ・・・・20年前にあなたが殺した女の子よ!」

 

Chapter15へつづく

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