Chapter15:「胎児」

1988年10月26日(水曜日)

「臨床試験モニターのアルバイト?」

新宿一丁目の居酒屋で働いていた高橋千絵子は、店の常連である若い雑誌編集者に新しい高額時給の仕事の話を持ちかけられていた。

「今度の連載は、これまでの量子物理学の常識を覆してきた安曇記章先生が、有機物の影の構造に関する研究成果を発表するんだ・・・まとまったら単行本化も予定されている・・・これが発売されたら小椋出版で刊行された新書の最高傑作になると思うよ」

「その手のモニターって、発売されてない新薬を試す・・・とか、人体実験みたいな事をするんでしょう?」

「いや、薬は既成薬品しか使わない。プラン通りのモニタリングをすれば人体に影響は無いんだ・・・どうだ?この仕事を請けてみる気はないか?」

バブル景気でアルバイトの選択肢が多く、そのような胡散臭い仕事は断ってきた千絵子だったが、水商売とは桁違いの時給の高さに、心が揺れ動いていた。

「ちーちゃん、子供が3人もいて大変だろう?・・・前の旦那から、きちんと養育費は貰っているのか?」

「全然よ・・・あの人は事業に失敗して行方不明なのよ・・・いずれにしても支払い能力は無いと思うわ・・・先週、家計が苦しいのを見かねてか、長女の美緒が家を出ちゃったの」

「えっ?美緒はまだ中学生だろ?・・・警察に捜索願いは出したのか?」

「あの娘なら大丈夫よ。私よりしっかりしてるし・・・昨日、不登校児を受け入れるカトリック系の養護施設で畑仕事をしてるって本人から連絡があったわ・・・それより、妹の円香が保育園に連れて行く時に毎日グズっちゃって悩みのタネなのよ。お絵描き帳を無くした時なんか一日中泣いていたのよ。末っ子の恭太郎は、図鑑を買ってあげれば大人しく読んでいるから手間がかからないんだけど・・・」

三十路を過ぎたばかりの千絵子は大きな溜息をついた。彼女は春原より一回りも年上だったが、見た目は幼く、可愛らしい女性だった。

「よし、それじゃ子供たちの面倒もこっちで引き受けるよ・・・安曇先生の屋敷は広くて、使用人も大勢いるんだ。子供の一人や二人連れてきても問題無いさ」

「円香はあなたに懐いているから、とても喜ぶと思うわ・・・・・そうね・・・・・・どうしようかなぁ・・・・・」

「良い条件が揃っているんだ、考えるまでも無いだろ?・・・もっとも、ちーちゃんが、この居酒屋の仕事を続けたいなら無理強いはしないけど・・・モニターの仕事も含めて、何か問題があれば、この俺が全部責任を取るよ」

「分かった、透ちゃんを信用するわ・・・実を言うと、この店は地上げ屋の嫌がらせが続いていて、今年いっぱいで閉める事になってたらしいのよ・・・おかげで助かったわ」

春原透は、酔った振りをして大袈裟に千絵子をハグすると、その日は、足早に勘定を済ませて店を出て行った。

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1989年5月17日(水曜日)

「春原君、ちょっと相談したい事があるんだが・・・・」

「何ですか?・・・・先生」

春原は肩車をしていた千絵子の娘の円香を降ろして、母親がおやつを用意していると耳打ちした。円香は春原に買ってもらった小さなスケッチブックを小脇に抱えて、弟の恭太郎がいる図書室へ走って行った。

安曇記章は書斎で実験用の白衣を脱ぎながら、サイエンス雑誌の今月号の原稿のチェックをしている春原に話しかけた。

「君がスカウトしてくれたモニターの高橋千絵子君の事なんだが・・・」

春原は顔を上げて(その日が来た)と思った。当初組まれていた臨床試験プログラムは先月の段階で全て終了していた。あとは影の分割などリスクを伴う実験が予定されていたが、彼女はその候補から外されていた。

「彼女は・・・解雇ですか?」

「いや、その逆だよ。私は彼女と籍を入れようと思っているんだ・・・彼女の子供たちも、この家にすっかり馴染んでしまった。また施設に預けるような生活に戻すのは不憫な感じがしてね・・・私も幼い頃に戦争で父を亡くし、シングルマザーの苦労はよく分かっている・・・私と親子ほど年が離れているからどうかと思ったが、彼女も同意してくれたよ」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「私は物理学の研究に没頭し過ぎて、生涯独身で終わるだろうと思っていたが、晩年になって家族に恵まれるとは思っていなかった・・・彼女を紹介してくれた君に、一言お礼が言いたかったんだ」

「・・・・・そうですか・・・・・おめでとうございます、先生・・・どうか、彼女を幸せにしてやって下さい」

春原の声は微かに震えていたが、安曇記章はその祝福の言葉を受けて嬉しそうに笑った。

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1989年8月10日(木曜日)

千絵子と二人の子供が安曇家の家族になってからも、影に関する研究は継続して行われていた。春原の編集による「影の構造」(上巻)の版下制作も順調に進んでいた。

ある日、何度目かの「生体分影」の実験を実施する日に、アルバイトのモニターが親族の法事と重なって休む事になった。こういう場合は、安曇記章の妻となった千絵子が代役を務める事が度々あった。生きている人間の分影は、実験体が屋外で全裸になる必要があったので、安曇は妻の肌が晒される事を嫌がったが、広大なバルコニーで千絵子は臆する事なく、実験装置の中央に位置するサークルの中で身にまとっていたガウンを脱ぎ捨てた。

春原もその実験に立ち会っていたが、改めて、この年上の女性の裸体の美しさに魅せられていた。

「長嶺君、準備はいいか?」

安曇の助手を務めていた頃の長嶺洋一には、まだ左腕があった。しかし、いつも前腕部が包帯で巻かれていて肩から三角巾で吊るされていた。彼は生体分影実験の失敗による最初の犠牲者であり、左腕の筋肉の壊死が始まっていた。おそらく肩から切断する事になるだろう、と本人の口から聞かされていた。そういう事もあって、千絵子の身体を使った実験には細心の注意が払われていた。

人間の影はレーザーの高熱焦点によって切り離すのが最も効率が良く、切り離した後も一定期間内に人体に結合させれば被験者の身体への影響は殆ど無い事が分かっていた。長嶺の影は、長期間結合せずに放置していた為に人体に影響が出てしまったのだ。

決められた手順通りに実験を行えば失敗する事は無い。その日の安曇は分影後に簡単なデータを採取して、出来るだけ早めに妻の影を元に戻すつもりでいた。

ところがその日、影の切断をしている最中に千絵子が腹部の苦痛を訴えだした。

分影中の作業を中断する事はタブーとされていた。過去に外国で行われた臨床実験で重篤な精神障害を負った被験者がいたのだ。安曇は千絵子の影を全て切り離してから、周囲の実験装置の電源を全て切った。

「ちーちゃん・・・・大丈夫か?」

春原は千絵子のいるサークルへ駆け寄り、持っていた彼女のガウンで身体を包んだ。千絵子は、あい変らず苦しそうに前屈みになって痛みを堪えていた。

「長嶺君、彼女をセフィロト病院に連れていく・・・車の手配をしてくれ」

緊急時の為に待機していた数名のスタッフと一緒に長嶺がバルコニーから姿を消した。

「何が起きたんだ?実験の手順は万全だった筈だ・・・・・」 

安曇は、苦しんでいる妻を見かねてアンプルケースから鎮痛剤を取り出したが、その最中にある可能性に気付いた。

「まさか・・・・・」

「どうしたんですか!?先生!」

春原の問いにはすぐに答えず、安曇は切断された影の前で立ち止まった。影の腹部には小さな穴が空いていて、バルコニーの床の模様が鮮明に見えていた。

「彼女は妊娠している・・・・これは、どういう事だ?」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・!?」

「妊婦の生体分影は母胎と胎児に影響が出る。絶対にやってはいけない事なんだ・・・だから、私はこの研究を始めるようになってから、彼女には指一本も触れていない・・・・それなのに・・・・何故、この胎児が彼女の身体の中にいるんだ?・・・・これは一体、誰の子供なんだ!」

安曇は千絵子を抱いたまま、真っ青な表情になっている春原の顔を睨みつけた。

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その日の夕方、セフィロト病院の産科専用手術室で医師や看護士のどよめきが響いていた。執刀に立ち会っていた脚の悪い長嶺は膝から崩れ落ちて、暫くの間、立ち上がる事が出来なかった。

「院長、見て下さい・・・彼女の身体からこんな物が・・・・・」

手術を終えた執刀医が黒い物体が入っているトレイを安曇の元へ運んできた。胆石か胎盤のように見えたが、その黒い塊は明らかに人間の形をしていた。

「石化した胎児・・・いや、これは人間の形をした『黒い石』です。胚細胞性腫瘍の一種、つまり『胎児様奇形腫』なのかもしれませんが・・・・ともかく、私はこのようは症例を目の当たりにしたのは初めてです」

「奇形腫だと?・・・・つまり、これは子宮の中で胎児に成り済まして現れた腫瘍だと言うのか?」

「妊娠していたのは確かなんです。しかし、胎児が何かの原因で急速に腫瘍化した・・・リンパ節転移や肝臓転移、肺転移、骨転移など末期の症状が表れてます。完治はほぼ絶望的です。余命は細かい検査をしなければ分かりませんが、おそらく長く持って半年から1年ぐらいでしょう」

安曇記章は言葉にならない呻き声を上げて壁を叩いた。それとは対称的に、春原は廊下に置いてある椅子に座って頭を抱えたまま全く身動きが出来ない状態になっていた。

「はる?・・・・どうして泣いてるのぉ」

安曇の車で一緒に付いてきた円香が、春原の隣りの椅子に座って抱きついてきた。円香は春原を「すのはら」と読めないので、彼を「はる」と呼んでいた。弟の恭太郎は図鑑を抱えたまま、挙動不審な大人たちの様子を冷静に観察していた。

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翌日、安曇家の書斎で春原は土下座をしていた。

「すみません・・・全て俺の責任です。俺は・・・・彼女が好きだったんです・・・でも、彼女はあなたを選んだんだ・・・俺も自分のようなチンピラより、先生のように地位も名誉もある方と一緒になる方が幸せだと思ったんです」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

安曇記章は何も言わず、椅子に座りながらパイプを咥えて窓から見える庭先の風景を眺めていた。庭には、最近見かけるようになった黒い野良猫が徘徊していた。

「どんな罰でも受けます。俺を罰して下さい・・・俺のような人間は生きている価値がありません」

安曇は猫の動きを目で追いながら、ようやく口を開いた。

「・・・・君が彼女を好きだ、という事は最初から分かっていたよ・・・・彼女もそうだった、という事もね・・・・おそらく、君達が深い関係だったのは、私が彼女にプロポーズする前の事だったんだろう、それを責める権利は私には無いよ・・・・・・でも、妊婦の生体分影が危険である事を君は知ってた筈だ・・・・・彼女との関係を告白しないまでも、何らかの方法で実験を回避する方法はあったと思うのだが・・・・・」

「俺は・・・・・彼女が妊娠している事は知らなかったんです・・・・・・・おっしゃる通り、彼女との関係は過去にも何度かありました。でも、まだ所帯を持つ自信が無いと言ったら、彼女は進んで避妊薬を飲んでくれました。これまで妊娠した事は一度も無かったんです・・・・・今回は薬が効かなかった、という事でしょうか?」

「その可能性が0パーセントとは言わないが・・・・・もしかすると、彼女は薬を飲んでいなかったのかもしれない・・・・少なくとも、本人は妊娠していた事に気がついていた筈なんだよ・・・・・たぶん、産む気だったんだな・・・・君の子供を・・・・」

春原はその言葉に驚いて、ようやく床に擦り付けていた頭を上げた。

「そんな馬鹿な・・・・・俺の子を産むなんて・・・・それでは先生と結婚した意味が無いじゃないですか」

「彼女の真意は分からないが・・・例え、彼女が君の子供を宿していたとしても、私は君と彼女の事は許していたよ・・・・私は彼女の貞操と結婚したわけじゃないんだ・・・こんな考えは、年寄りだから言えるのかもしれないが・・・それだけに、今回の件は残念なんだよ・・・君と私は「影の構造」を解明する為に集った同志じゃないか・・・私は君と確執があると思った事は一度も無い・・・それだけは理解して欲しいんだ・・・」

「先生・・・・・・・・」

春原は自分の不甲斐無さと安曇の心の大きさに触れ、涙を抑える事が出来なかった。

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「恭太郎・・・お母さんのお見舞いに行くぞ・・・早く支度するんだ」

円香を肩車したまま、春原は恭太郎の部屋を覗き込んだ。彼はあい変らず図鑑ばかり読んでいて、愛想の悪い子供だったが、春原は姉の円香と同じぐらい愛情を注いでいた。

「僕は行かない・・・朝から気分が悪いんだ・・・・」

「風邪でもひいたか?・・・・待ってろ、体温計を持ってきてやる」

「寝てれば大丈夫だよ・・・最近、あまり庭に出たくないんだ・・・・・薄気味悪い猫もいるし・・・・」

「ああ・・・あの野良猫か・・・・先生はお気に入りのようだがな・・・・・わかった、帰りに新しい図鑑を買ってきてやるよ・・大人しく寝ているんだぞ」

庭では安曇記章が、車庫から古い型のベンツを出そうとしていた。常駐の運転手が車のメンテナンスと共に休暇を取っていた為、久しぶりに安曇自身がハンドルを握る事になった。春原が運転するつもりでいたが、安曇はそれを丁寧に断った。彼自身も千絵子の為に何か貢献出来る事を探していたのだ。

この古いベンツは安曇記章の母が生きていた頃にバックで車庫入れが出来なかったので、背中を向けて車庫に入れたまま放置していた物だった。ギアをバックに入れて慎重にアクセルを踏む安曇の様子がリアウインドウ越しに確認出来た。春原は円香に「この場所を動くんじゃないぞ」と言って車の誘導に向かった。

「オーライ、オーライ・・・・」

ベンツは時間をかけてゆっくり春原の方に向かって行った。安曇の運転は日頃の実験と同じぐらい慎重かつ正確なものだった。ところが、突然車から耳障りなモーター音が鳴り響いた。同時に運転席の窓から安曇が顔を出し、叫び声を上げた。

「春原君、この車・・・ブレーキが利かないようだ・・・・危ないから、避けてくれ」

車はまるで意志があるかのように急発進し、春原を目掛けて突進してきた。間一髪で車を避けた春原は庭で蛇行するベンツを追いかけた。再び春原に向かってきたタイミングを見計らって、彼は開いている窓にしがみついた。

「先生、運転席のドアを開けて下さい!このままだと建物に衝突しますっ!」

運転席が開くと二人は車から地面に投げ出された。その時、春原は強かに腰を打った。

ベンツは狂ったように庭を暴走し、庭の隅にあるの立ち木に衝突して、ようやく停車した。

春原は気絶している安曇を起こし、腰を抑えながら立ち木のある場所に向かって行った。

そこは、春原が円香に動くなと言った場所だった。

「・・・・・・・・・・・・・・・!!」

庭の騒がしい様子を聞きつけて、恭太郎が屋外に姿を現した。

「お姉ちゃん!お姉ちゃん!」

恭太郎の悲痛な声が聞こえてきて、春原は立ち眩みがした。車輪の跡が残っている地面には円香が大切にしていたスケッチブックだけが残っていた。円香は車体と立ち木に挟まれて小さな腕だけがかろうじて見えていた。それを無理やり引き抜こうとする弟を春原はやめさせた。普段は感情を表さない恭太郎が大粒の涙を流していた。

「誰が・・・・誰が、こんな事を・・・・・・」

ようやく脚を引きずりながら追いついた父親が何かを言おうとしたが、春原は「喋らないで下さい」とジェスチャーで伝えた。

背中を向けて泣いている恭太郎に春原は言った。

「俺だ・・・・円香がこんな目に遭ったのは・・・・俺のせいなんだ・・・・」

恭太郎は振り向いて春原を睨みつけた。彼の顔には現在流している涙とは別の方向に流れている涙の跡があった。

春原は、その時初めて、この幼い少年が母親の余命が残り少ないという事情を理解している事に気付いた。

 

Chapter16へつづく

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