Chapter19:「消えた犬」

その犬は飢えていた。

彼が生まれた場所は、都内にある小さなペットショップだった。生まれたばかりの頃は目が見えなかったが、同じ日に生まれた兄弟と母親の乳房を奪い合った事は覚えていた。彼らはすぐに母親から引き離され、最初の飼い主に貰われて行った。しかし、その家が火事になり、火傷を負った主人が入院した際に親戚の手によって捨てられた。その数日後、彼らは動物愛護セ ンターの職員によって保護された。

固形の餌が食べられるぐらい成長した頃、動物愛護セ ンターに一組の家族が現れた。澄んだ瞳の少女が双子の犬を気に入って、その日のうちにケージに入れられ貰われて行った。その犬は当然の事のように受け止めていたが、もう一匹の兄弟が慣れない環境に脅えてクンクン鳴いていた。この兄弟は、最初のペットショップで母親から引き離された時も母乳が恋しくて、いつまでも鳴いていた。そんな時は彼が兄弟の顔を舐めて慰めた。二番目の飼い主の自宅でミルクを与えられると、兄弟は安心して鳴かなくなった。彼らの生涯の中で二番目の飼い主の住居が一番快適だった。

飼い主の少女は彼らを可愛がり、毎朝散歩に連れて行ってくれた。ある日、いつものように朝食のドライフードを食べた後、彼らは突然黒いビニール袋に入れられた。兄弟は飼い主がふざけていると思い込み、袋の中で転げ回っていたが、その犬は不快に感じて唸り声を上げた。

「ドスン」と言う大きな衝撃音と共に袋が破れ、目の前の車道の上に兄弟の足が転がっていた。頭や胴体は潰れていて、内臓が何かに引きづられて散乱していた。その犬は目の前で起きた事が理解出来ず兄弟の匂いがする肉の塊の周りをうろついていた。もう一度、黒いビニール袋の中に入ってじっとしていると、人間の少女の声が聞こえてきた。その犬は飼い主が迎えに来たのだ、と思い尻尾を振って近づいて行ったが、そこに立っていたのは見覚えの無い双子の少女だった。

その日の夕方、双子の少女の姉が現れ、いつまでも路上でうろついていたその犬を拾い上げ、廃屋となった団地に連れて行った。薄汚れたダンボール箱とタオルはあまり良い匂いがしなかったが、外は大降りの雨だったので、彼は新しい飼い主に守られているという安堵感があった。三番目の飼い主は、彼が寒さで震えている様子を見て長い時間抱きしめてくれた。彼は懐かしい母親の温もりを思い出していた。彼女は彼を抱きしめながら嗚咽を上げて泣いていた。

その日の深夜、双子とは違うショルダーバッグを抱えた少女がその部屋に現れて、六畳間の畳をバールを挟んで持ち上げていた。見慣れぬダンボール箱に気付いた彼女は、中で居眠りをしている仔犬の存在に気付いた。その犬も彼女のバックから兄弟の匂いがしている事に気付き、目を覚ました。

「あなた・・・こんな所にいたら死ぬわよ」

彼女は、そう言い残してTVのリモコンのような機械を押入れから取り出して部屋を出て行った。彼は兄弟の匂いが気になって、ダンボール箱から這い出した。雨の中、ショルダーバッグの少女の後を追いかけていった。

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四番目の飼い主は「空」と呼ばれていた。

姿が見えなくなった兄弟や三番目の飼い主と再会した事もあった。野良犬の彼を成犬になるまで育てたのは「空」だった。その犬は、あい変らず、火薬の匂いがする団地の一室を寝ぐらにしていたが、爆薬で吹き飛ばされるような事態にはならなかった。彼は飼い主から身を守る為の厳しい訓練を受けていた。満足な食糧は与えられていなかったが、与えられる残飯や魚を好んで食べていた。

しかし、冬になって彼の身にある変化が起きた。

東京で初雪が観測された日の夜、深夜に街の中を散策する習慣がついていた彼は、駅前の電車の高架を作る為の資材置場で人影を見つけた。その人影はコンクリートブロックを持ち上げて地面に叩きつけていた。地面には黒いビニール袋が置かれていて中身がゴソゴソと動いていた。その影が再度ブロックを持ち上げてビニール袋に狙いを定めていた時、背後に犬の気配を感じた。

彼は振り向いたその人影の澄んだ瞳と身体の匂いから、その少女が二番目の飼い主である事に気付いた。彼女は狼のような風体のその犬を見て驚いていたが、やがて、かつての優しい眼差しを取り戻し、彼に向かって手招きをした。

「あなたにご馳走をあげるわ・・・・」

彼女はそう言いながら、ビニール袋の中身を乱雑に地面に転がした。その犬は、愛想良く尻尾を振って近づいて行った。ところが地面に横たわっている動物の血の匂いを感じて、その足は止まった。

袋の中身は、かつてペットショップで見かけた事があるロップイヤーと呼ばれる品種の垂れ耳のウサギだった。

「どうせ殺すんだから、あなたにあげるわ・・・・食べていいわよ」

彼はその言葉の意味を理解していたが、二の足を踏んでいた。そのウサギは身体を痙攣させて、逃げだそうとしていたが、肝心の足の骨が折れていた。

彼が初めて動物の血の匂いを嗅いだのは、双子の兄弟が車に轢かれた時だった。それ以来、食用の動物の肉に関心を示す事は無かった。しかし、彼の野生動物の本能が成長と共に、それを欲するようになっていた。

彼は死の恐怖に脅えるウサギに歯を剥き出して襲いかかった。獲物は首の骨が折れ、僅かに繋がっている靭帯の力で必死に抵抗した。その犬はウサギの首を咥えながらブンブン振り回し、コンクリートの地面に叩きつけた。少女は満足そうに笑いながらその様子を眺めていた。

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動物の肉の旨味を覚えてしまった彼は、砂塚町の団地の寝ぐらに戻る事は無かった。

その年の冬に野生のカラスや野良猫の死骸が街中に散乱していたが、それは全て彼の仕業だった。

しかし、冬の寒さが厳しくなり、街中で野生動物を見かける事は殆ど無くなった。彼はスーパーマーケットの倉庫に忍び込み、パック詰めされた豚肉や鶏肉などを貪っていたが、その噂が業者の間に拡がり、多摩地区全域の食料品店のセキュリティが強化された。

ゴミ捨て場の残飯などをあさって飢えを凌いでも、彼の胃袋が満たされる日は無かった。四番目の飼い主である森崎空の元に戻れば、以前のように餌が与えられる事は分かっていた。しかし、彼の舌は肥え、生きている動物の血と肉の味が忘れられなかった。

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雑草や虫などを食べながら三週間、まともな獲物に有り付けず、その犬は飢えていた。

ある晩、多摩川の河川敷でホームレスの男が寝袋とダンボールを何枚も重ねて寝ていた。その犬は近くに置いてあったリュックサックに近づき中身を物色した。そこには丁寧にアルミホイルに包まれた半分食べかけの握り飯があった。その犬は鼻先で器用にホイルを剥がし、三週間ふりの食料に有り付こうとした。その時、頭が割れそうなほどの激しい痛みに襲われた。

「この野郎、貧乏人が苦労して手に入れた僅かな食料を盗むつもりか!」

その男は、振り上げた蝙蝠傘の柄の部分で何度も野良犬の頭を叩いた。眉間に傷を負ったその犬は一度退散したが、ホームレスの男が握り飯をたいらげる様子を草陰に潜んで見ていた。彼は男が再びダンボールの布団に入った瞬間を狙って、破れた寝袋からはみ出している足首に噛み付いた。

「痛えっ!イタタタ・・・・何するんだ、この畜生!!・・・ぶっ殺してやる」

その男が100円ショップで買った白色LEDライトを点けて、リュックの中から果物ナイフを取り出そうとした。ところが、その直前に噛み付かれた足を引っ張られてリュックを掴む動きが遮られた。思わずライトの光を犬に当て、その姿を確認した男の顔が引きつった。あばら骨が浮き上がるぐらい痩せ細っていたが、その犬の体長は自分よりはるかに大きかった。

彼が悲鳴を上げる間も無く、その身体は殺気立った大型犬によって河川敷から土手の方へ引きずられて行った。

「バ、バケモノだ・・・助けてくれぇ!!」

犬は勾配のある坂を後ろ向きで這い上がり、土手の上にあるガードレールの無い車道にまで人間の身体を引き上げた。犬の牙がアキレス腱を食いちぎり、男は車道に放り出された。ようやく犬から逃れられたと思って四つん這いになり、顔を上げた時に彼の視界に入ったのは車のヘッドライトだった。

アルミボディの4トントラックのブレーキ音が響き、大手運送屋の制服を着た運転手が降りてきた。街灯の少ない車道はホームレスの男がいた場所まで光が届いていなかった。運転手が暗闇の中でピチャピチャと何かを食べているような音に気付き、足を進めると威嚇するような動物の低い唸り声が聞こえた。

「なんだ・・・何かにぶつかったと思ったが、野良犬か・・・・脅かすなよ」

運送屋の男は胸を撫で下ろし、ホームレスの死体を確認しないまま運転席に戻り、車を走らせた。

散乱している「何か」を遠巻きに回避しながら通過していく乗用車を無視して、その犬は人間の肉を貪り続けた。

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数時間後、彼は暗闇の河川敷沿いの遊歩道をあてもなくトボトボと歩いていた。

その犬の口の周りから前足にかけて、大量の人間の血で汚れていた。久しぶりに食料に有り付けた筈なのに、彼の胃袋が満たされる事は無かった。しかし、空腹だった彼は人間の肉の旨味をそれなりに堪能していた。都心には人間が溢れるほど住んでいる・・・いざとなれば再び人間を襲えば良いのだ。

その日の夜は気温が川の水温より低く蒸気霧が立ち込めていた。

遊歩道の正面の霧の中から小さな人影が浮かび上がり、その犬は足を止めた。

彼は警戒し、あわよくば喉元に噛み付いてやろうと唸り声を上げた。しかし、彼の恐怖心・闘争心は、懐かしい仲間の匂いに掻き消された。かつての双子の兄弟の物とは違ったが、明らかにその影は同属種の「犬」の匂いがした。

彼の目の前に現れたのは、靴を履いていないパジャマ姿の少年だった。

「・・・よく頑張ったね・・・・オク・・・」

その幼い少年は膝を着き、今にも飛び掛りそうなほど敵意を剥き出しにしている犬の頭を抱え、優しく撫で始めた。

「あの子たちの暴走を食い止める事が出来るのは君だけなんだ・・・空腹に身を任せて弱い動物や人間を襲ったりしたけど、後ろめたさを感じなくていいんだよ・・・それが君の本当の姿なんだから」

その犬は、彼の言葉の意味を理解出来なかったが、頭を撫でられているうちに敵意は完全に失っていた。愛想良く尻尾を振りながら、少年の周りをグルグルと走り回った。アスファルトに仰向けになって腹を見せるような、おどけた仕草も見せた。その様子を見ていた少年の瞳はとても澄んでいた。彼は何処かで、このような澄んだ瞳を見た覚えがあった。

やがて、夜靄が晴れ少年の姿も消え去った。その犬は、今まで感じた事の無い孤独感に襲われた。元々人間に懐くような犬では無かったが、それは、ペットとして生まれた彼が飼い主に心の底から愛情を注がれた事が無かったからだ。彼を一番長く飼っていたあの森崎空でさえ、彼の頭を一度も撫でてくれた事は無かった。彼は、自分が飢えていたものが本当は何だったのか、その時に初めて気付いた。

その犬は、血まみれの牙を剥き出しにして、まだ夜明け前の星空を仰ぎながら何度も遠吠えを上げた。

 

Chapter20へつづく

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