Chapter20:「理由」

「バステト・・・・古代エジプトの民に崇められた太陽神ラーの娘・・・・・多くの民を惨殺した雌獅子神セクメトが神々の知恵によって『憎しみ』の感情が消失・・・・・猫の頭を持つ守護神として生まれ変わった」

春原透は、小椋出版の新刊、TVタレントが書いた「骨盤ダイエット本」の版下をチェックする傍ら、エジプト神話に関する専門書を読んでいた。

「2010年1月19日・・・エジプト考古最高評議会は、同国北部アレクサンドリアの神殿遺跡から、 古代エジプト・プトレマイオス朝の王、プトレマイオス3世(紀元前246〜同221年)時代の猫の姿をした女神『バステト』の像を発掘・・バステトは子供の守護神、出産の神であると同時に、攻撃的で獰猛、狡猾な二面性を持っている・・・」

事務所の扉が開き、昼食の買出しに出掛けていた妙子が戻ってきた。春原は本を閉じ、煙草を咥えながら、窓際のブラインドカーテンを開けた。

「さっきから、外が騒がしくないか?」

「野良犬が乳母車に乗っていた赤ちゃんを襲ったらしいのよ。商店街の袋小路に追い詰められて、捕獲しようと沢山の人だかりが出来ていたわ・・・ちょっとだけ姿が見えたけど、あの犬、この間の夜に砂塚町で見かけた犬じゃないかしら?」

「・・・・・・・・・!?」

春原はロッカーの上に乗せてあったダンボール箱をひっくり返し、転げ落ちた防犯用の「ネットランチャー」を掴み、廊下から非常階段に向かって飛び出して行った。

「春原さん、どうしたの?」

表の通りでガラスが割れたような音が響き「あっちへ逃げたぞ!」という叫び声が聞こえた。

春原はらせん状の階段から身を乗り出し、路上を駆け抜けていく大型犬の姿を確認した。追い着いた妙子に向かって春原は言った。

「あれは森崎が飼っていた犬だ・・・捕まったら厄介な事になるぞ」

二人は階段から地下駐車場へ移動し、数日前に車検整備を終えたばかりのジムニーに乗り込んだ。

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「園部さん、水沢玲於奈を確認しました。現在、公園の西側にあるベンチに座って、大人しく読書をしてます」

播磨山公園でデートをしていた若いカップルの男の方が、学校の制服を着て公園をうろついている玲於奈を遠巻きに監視しながら、公園沿いにあるコンビニエンス・ストアの駐車場で待機している園部と寺田に連絡を入れていた。

「学校のすぐ近くで、昼間からヌケヌケと授業をサボりやがって、俺の娘だったら引っ叩いてやるところだ・・・ミスター、新入りの刑事に子供を見張らせるなんて、少々大袈裟じゃないのか?」

「僕たちが公園に現れたら、かなり目立ちますからね」

園部は笑いながら、彼が警察官になってから訓練以外では使用した事が無い38口径のリボルバー拳銃のシリンダーに弾を込めていた。

「彼女は、この半年間、街中に大量の動物の死体を遺棄していると噂されています。出来れば、その現場を押さえたいんです」

「例の動物虐待癖か・・・・管轄外だな・・・・こういうのは少年課の仕事だろう?」

「それだけじゃありません。先日の十全堂小の変死事件について鑑識から報告がありました。体育館のギャラリーの割れたガラスの破片に彼女の毛髪が大量に付着していたそうです・・・やはり彼女は、あの事件に関わってたんですよ」

「気象の専門家の話だと・・・あの日、この地域で局地的なダウンバースト(下降噴流)が発生したと言ってたぞ。子供の漫画じゃあるまいし、あのガキが魔法でも使って人殺しをしたと言うのか?」

「現場検証で分かった事ですが、体育館の床にチョークで幾何学的な模様の『防護円』が描かれてました。これは、西洋の宗教的な儀式で悪霊から身を護る為に使われていたものと同じなんです・・・描いたのは、おそらく唯一被害から逃れられた森崎空でしょう。僕も基本的に超常現象などは信じてませんが、これまでの事件の流れを整理すると、それらが、ある法則性に基づいて動いている事が分かりました。それが魔法だろうが、集団ヒステリーだろうが、これらの事件にケリをつける為には、彼女たちの動機の解明が必要なんです・・・」

「法則性って・・・・・以前、春原って奴に話した『実態の無い動物の影』の事か・・・・・?」

「まだ確証はありません・・・1時間ほど前に、森崎空を尾行していた刑事が彼女を見失ったと言ってました。僕の推理が正しければ、もうすぐ彼女がここに現れます・・・・・とにかく、今は水沢玲於奈から目を離さない事です」

二人の会話を遮るように、公園で張り込んでいた若い刑事の連絡が入った。

「園部さん、水沢に動きがありました。公園でボール遊びをしていた幼い女の子が彼女に近づいてます。水沢は転がってきたボールに反応して立ち上がりました・・・・・・!?・・・・・・何だ、あれは?」

「どうした、市川君?」

園部はリボルバーを肩のホルスターに収めながら、慌てている新米刑事に尋ねた。

「立ち上がった時に、彼女の左手のところで何か光ったんです・・・・・あっ!・・・あれはサバイバルナイフじゃないか!?」

それを聞いて、寺田が運転席から飛び出そうとしたが、園部がそれを制止した。

「まだです、森崎が現れるまで待って下さい」

「おい、ミスター!・・・何か事件が起きてからでは、シャレにならねえぞ!」

「大丈夫です、あの子はそこまで馬鹿じゃない。公園には他にも人が沢山いるんです。白昼堂々、ナイフで人を刺すような事をするわけが無い・・・」

園部が言った通りに、玲於奈はすぐにナイフを後ろ手に隠し、転がってきたボールを拾って幼女に渡した。

「きゃあ!」

突然、悲鳴を上げたのは公園の中央に立っていた幼女の母親の方だった。石碑などの死角に身を潜めていた森崎空が、母親のいる場所へ戻ってくる幼女と入れ替わるように、バールを振り上げて玲於奈に襲い掛かって行った。

「園部さん、森崎空が現れました!くそっ、あんな所に隠れてたのか!」

「いいか、市川君!・・・君は彼女を追わずに公園にいる人たちを避難させてくれ、そして、君も現場から離れるんだ!・・・想定外の事態が発生する危険性がある・・・・行きますよ、寺田さん!!」

「おい!想定外って・・・・何が始まるんだ!?」

寺田が慌てて煙草の火を消して、後部座席を振り返った時には、園部は既に車を降りて公園の階段を登っていた。

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「本当にこの公園に犬が逃げ込んだのか?」

「・・・・・・・・・・・・・・」

「稲森、どうした?・・・・顔が真っ青だぞ」

空の飼い犬を追って、園部と反対の公園の入り口に辿り着いた春原は、妙子がトランス状態に入った事に気が付いた。

「おい、稲森・・・・しっかりしろ!」

春原に頬を叩かれて、妙子は意識を取り戻した。

「何なの・・・・この公園は?・・・・人間だけじゃない、得体の知れない『憎悪』に満ちた感情の吹き溜まりになってるわ」

まるで、その言葉に反応したかのように、丘陵地の高台で女性の悲鳴が上がった。

「あの犬が現れたのかもしれない・・・お前、具合が悪そうだから、ここで待ってろ」

春原は舗装されていない公園の斜面を登って行った。妙子は吐きそうになりながらも、のろのろとその後に続いた。

公園の高台から、たくさんの親子連れや老人のグループが駆け下りてきた。

「君達、この公園は危険です。避難して下さい・・・あっ、ちょっと待てっ!」

ぎこちない動きで警察手帳を取りした若い刑事を無視して、春原は公園の奥へ進んで行った。

丘陵地の頂上では、異常な風圧のダウンバーストが発生していて、何本もの巨木がなぎ倒されていた。

濃霧が吹き荒れ視界が定まらなかったが、春原は公園の公衆便所の影で風を避けている二人組の刑事の姿を確認した。その前を、風圧でひっくり返された森崎空が現れた。空はすぐに立ち上がり、髪を振り乱してナイフをチラつかせている玲於奈に突進して行った。

「あの馬鹿・・・こんな所で何やってるんだ!?」

空はバールを振り回したが、玲於奈にはかすりもしなかった。その姿は、まるで同極同士の磁石を近づけたような感じで、空の身体が宙に浮き、反対の方向に吹き飛ばされていた。

「公園の時計台の上よ、あそこで水沢さんを護っている何かがいるわ・・・・くっ・・入ってくる・・・・痛いっ・・・・頭が割れそうよ」

妙子はもんどりを打って嘔吐を繰り返し、その場で気を失った。

その時だった。

突然、風が治まり徐々に霧が晴れ出した。空は公園の8メートルほどの高さがある時計台の上で、苦しそうにもがいている萩人の姿を見た。さっきまで面白そうに見物していた少年の霊が地球の引力に身を任せるように、頭から落下していく様子が見えたのだ。

空は、不思議な力を失って動揺している玲於奈の顔面に、バールを容赦なく叩きつけた。

「当たった!?」

今度は玲於奈の身体が吹き飛ばされる番だった。

卒倒する玲於奈を見て一番驚いていたのは、攻撃した空自身だった。玲於奈も自分が大量の鼻血を出している事に驚いていた。しかし、負けず嫌いの表情を浮かべて上半身を起こし、口の中に溜まった血を吐き出して言った。

「そんな玩具みたいな道具で私を殺す事は出来ないわ・・・」

空は玲於奈が立ち上がる隙を与えず、馬乗りになって、彼女の美しい顔に再びバールを振り下ろした。

見かねた春原が二人に近づいて行こうとした時、後方の茂みの中から、大きな影が彼を追い抜いて行った。

「・・・・・・何!?・・・・・・・痛い!痛い!・・・・オク、やめて!」

春原たちが探していた大型犬が、空の右腕に噛み付いていた。その様子を見て、二人の刑事が思わず身を乗り出した。

「何だ、あのバケモノみたいな犬は・・・・・」

一番、目を疑ったのは春原だった。仔犬の頃から育ててくれた飼い主に向けて、その犬は迷いも無く牙を向けたのだ。犬は空の腕が引きちぎれそうなぐらい噛む力を緩めなかった。春原は我に返って、風圧で飛ばされたネットランチャーを拾いに行った。

空の腕から血が噴き出す様子を見て、異常な反応示したのは玲於奈の方だった。彼女は、狂犬と化したその犬の喉元にサバイバルナイフを突き立てた。返り血を浴びるほど、ナイフは急所を捉えていたが、その犬はビクともせずに空の腕から離れる事は無かった。犬は自分を殺そうとしている昔の飼い主の顔を目で追った。彼女の澄んだ瞳から大粒の涙がこぼれていた。泣きながら、何度も刃物を振り下ろしていた。

彼の喉はズタズタに引き裂かれ、意識が遠のいていた。しかし、彼は玲於奈の瞳から目を離さなかった。ようやく自分が探していたものに巡り合ったような気がしていた。

ついに犬が力尽きて空の腕から離れたが、それでも玲於奈は何度もナイフを振り下ろしていた。そこへ、春原が近づいて玲於奈の襟元を掴んで血まみれの犬の死体から引き剥がした。

「いい加減にしろ!水沢・・・お前もだ、森崎!・・・お前たちは人間や動物の生命を何だと思ってるんだ!!」

園部は、春原が誰が聞いても真っ当な説教を子供たちに垂れている間に、空と玲於奈の様子を観察していた。涙を流しながら毅然とした姿勢で春原と向かい合っている玲於奈に対して、空は猫のように背中を丸め、いつまでも憎悪に満ちた表情を玲於奈に向けていた。彼女は玲於奈と対称的に飼い犬が殺されても、涙は一粒も流していなかった。

「森崎、お前が今までやってきた事は、親や飼い犬を殺されて、その復讐をする為だったのか?」

空は春原の問いに答えなかった。それを代弁するかのように口を開いたのは玲於奈の方だった。

「この子が私を殺そうとするのは当たり前よ・・・私は幼い頃から、この子の大切な物を奪ってきたの・・・恨まれて当然なのよ」

「その理由は納得いきませんねぇ・・・」

傍観していた園部が今頃になって近づいてきたので、春原は腹を立てていた。彼にとって警察は、事件発生後に獲物に有り付く「ハイエナ」にしか思えなかった。特に、太り過ぎの刑事は身体もろくに動かせないからタチが悪い。

「水沢さん・・・君は周りから、自傷癖や動物を傷つける心の病を持っている子だと言われてるようだけど、それは本当の顔じゃない。君の行動には何か人に言えない『理由』があるんだ。そもそも、君は人に恨まれるような事を意図的にやるような人間じゃ無い・・・・この事は、森崎空・・・君も分かっていた筈だよ」

春原は園部の奇妙な発言を聞いて、呆気にとられていた。

「何をわけのわからない事を言ってるんだ?」

「そうよ、私がいなければ、この子の両親は死なずに済んだ・・・私のせいでこの子は、いつまでも、惨めで、汚くて、可哀想な生き方しか出来なくなってるのよ」

玲於奈が言い訳もせず、一向に自分を悪者扱いする不自然な態度を見て、園部は確信を持って真相を切り出した。

「僕は、最近起きている忌まわしい事件が、6年前の森崎家の踏切事故と関係していると早い段階で気が付いてました。ただ、それを立証する事が難しい。何しろ、ここにいる子供や春原さん・・・あなたを含め捜査を撹乱させる為に、かなり手の込んだ嘘をついてますからね。全容解明はもう少し時間がかかりそうですが、ようやく僕たちは6年前の踏切事故の新しい事実を知る事が出来たんです」

俯いていた空が鋭い目で園部を見つめていた。

「当時の捜査は一部の関係者に事情を聞いただけで、子供の不注意による悲劇的な事故という形で処理されていました。4歳の水沢玲於奈が線路に飛び出して事故が起きた事は間違いありません。でも、それが何故、起きたのか?何故、彼女が線路に飛び出したのか?・・・僕は、改めて本人に聞いてみたいんです」

顔に付いた犬の返り血を制服の袖で拭っている玲於奈に園部は質問した。

「君は、あの日、線路で何を見たんだ?・・・子猫のような・・・小さな動物の影を見つけたんじゃないのか?」

「それは・・・・・・・・・・・」

答えに困っている玲於奈を見て、春原はある事を思い出していた。当時、大学生だった安曇恭太郎が、父親の封印した影の研究・・・動物の「分影実験」を初めて成功させたのは確か6年前の出来事だった・・・彼は最初の実験で「猫」を実験体として利用し、影の回収には失敗したと聞いていた。その影が踏切事故に関わっていたと言うのか・・・・・

「当時は幼かったし、本人の記憶が曖昧なのかもしれない・・・仮に、僕の推測が事実だったとしても、子供の不注意の範疇を越えているとは言えないでしょう。でも、それが新たに集めた目撃証言によって全く違った面が見えて来たんです」

若い刑事が大きなビニールシートを持ってきて、寺田と一緒に死んだ犬の回収を始めた。

「当時の運転士や踏切に居合わせた人のほとんどが、事故に巻き込まれた被害者に注目していました。ところが、あの時の先頭車両に乗っていた乗客の中に、水沢玲於奈が線路に向かって走り出した瞬間を見ていた者がいたんです。乗客の割り出しは難しいと思われましたが、勤続10年も電車を利用している乗客なら、車両の乗り位置、ダイヤが全く変わってない事が多い、と元・鉄道警察隊の刑事が教えてくれました・・・」

「あ・・・それ、俺の事ね」

寺田が犬の首を持ち上げながら、調子に乗って口を挟んだ。

「確かに先頭車両の踏切側を見通せる場所で、当時と同じ時刻に乗り合わせていた乗客が3人もいました。彼らは見ていたんですよ。幼い水沢玲於奈が反応する直前に、森崎空が線路上の何かを見つけて、それに向かって指をさしている姿を・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・・!?」

「水沢は森崎が見つけた猫の影に気付いて・・・それを追いかけて、線路に立ち入ったんです」

春原を除いた全員が俯いている空に注目した。空は過呼吸のような状態になり、身体を震わせながら口を開いた。

「そうよ・・・私が最初にあの影を見つけたの・・・・踏切事故の原因を作ったのは・・・私なのよ」

「私は・・・玲於奈を恨んでいるとか・・・憎んでいるとか・・・そんな事は、今まで一度も言った事が無いわ。でも・・・この子は殺さなくちゃいけないの・・・・嫌いにならなくちゃいけないの・・・・何で・・・・・みんな、私の邪魔ばかりするのよ!!」

空は落ちていたバールを握り締め、傷を負った右腕を抱えながら、その場から走り去った。

 

Chapter21へつづく

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