Chapter5:「翻訳者」
「おい、起きろ・・・時間だ」 男がテーブルの上に散らばっている書類を片付けながら、傍で寝ている少女に話しかけた。 少女が目を覚ますと、目の前に、袋に入ったバターロールと500mlパックの牛乳が置かれていた。 「とりあえず、それを食べろ・・・寝ている間も腹の虫が鳴ってたぞ」 春原透は安物のインスタントコーヒーを入れたカップをすすりながら自分の机に戻っていった。新刊の校了前 小椋出版の新書編集部の時計は午後10時を回っていた。 春原は徹夜の校正作業をようやく終えたところだった。森崎空も連日、食事も取らずに怪しい実験を繰り返し ダイモス・キュリー著 安曇恭太郎訳 『影の構造』(上巻) 小椋出版 1990年2月12日第1刷発行 『影の構造』は小椋出版が誇る「空想科学読本」シリーズの一冊として刊行される予定だったが、発売直前に倫 あれから20年。編集部の中でさえ、その存在が忘れ去られている絶版本を抱えて、一人の少女が編集部を訪れ 『影の構造』上巻の最後の章に記されている「非生体分影法」・・・いわゆる死者の遺体の一部を使って影を再生 春原は、森崎空の止まることを知らない探究心に感心する一方で、不可解に思う点もあった。 それは、ほとんど廃棄処分された『影の構造』を彼女が所有していた事だ・・・本人は古本屋で偶然見つけた、と しかし、彼はその疑問を問い詰めるようなことはしなかった。いずれにしろ「非生体分影法」は成功例が少ない。 森崎は、学校の裏山にある公園で、死後数日経過した雑種の犬の影を再生したらしい。春原は、その影を彼女の 森崎は、以前から翻訳者の安曇恭太郎に会いたがっていた。春原は「分影法」の実験が成功したら会わせても良い 春原は背広に着替えながら言った。 「安曇さんは身体に障害を抱えているんだ。変な好奇心を出して、そういうところをつぶさに観察するなよ」 反応が無いので春原が振り返ると、空は空腹を満たし、再びソファーで寝入っていた。制服がだらしなくめくれて、 「この不良小学生め・・・実験が成功したからと言って無防備にもほどがある・・・・ほらっ、起きろ!遅刻するぞ」 何度か声をかけて、ようやく目を覚ました空だが、ソファーから四つん這いで移動するのも億劫そうだった。春原は、 床に落ちていたのは、一本のカラスの羽根だった。 *********************************************************************************************** 「やぁ、春原さん・・・直接お会いするのは久しぶりですね。この子が「分影法」を成功させた女の子ですか」 安曇邸の書斎は、春原の職場の倍以上の奥行きがあった。初老の翻訳家・安曇恭太郎はイタリア製のソファー 「おい、挨拶ぐらいしろよ・・・」 春原が、まだ眠そうな空の脇を小突いた。空は何も言わず、安曇の不自由な身体の部分を面白そうに眺めていた。 「夜分にすみません。僕の仕事の都合で遅くなってしまって・・・」 「いや、私も未だに「分影法」には関心があって、自分で何度も試そうとしたことがあるぐらいなんですよ。でも、 「彼女は、よくそれを成功させましたね・・・今度再生した影を私にも拝見させて下さい。『影の構造』の翻訳は難解 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 「おい、森崎・・・・・安曇さんに色々質問があって来たんだろう?・・・・・遠慮するなんて、お前らしくないぞ」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 「まぁまぁ・・・この子は疲れているようだ・・・子供はもう寝る時間だし、また日を改めて来て頂いても構いませんよ。 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・カドラプル・・・・・」 ようやく空が重い口を開いた。だが、彼女のその一言で書斎の空気が一変した。 「カドラプル・・・4つ・・・4倍・・・4人・・・4次元・・・・この言葉の意味はどう訳せばいいの?」 安曇恭太郎の顔から笑顔が消えた。彼は驚きを隠せなかった。 「君・・・それは『影の構造』下巻に記される予定だった「カドラプル操影法」の事ではないか?」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 「『操影法』とは生きている動物の影を操る方法だ・・・古代エジプトの時代から、様々な分野の研究者が実験を試みた 「だが、キュリー博士は独自の理論でそれを完成させていた。博士自身が亡くなる前に下巻の原稿を全て焼却処分し 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 「博士が猟銃自殺したのは、君が生まれる前の話なんだよ・・・」 「・・・・・・・・・・・・・質問をしているのは私の方よ」 困惑した安曇が春原の方を見た。春原はそれを察し無言で頷いた。 *************************************************************************************************** 安曇恭太郎との会話は、それ以上続かなかった。春原は、いつまでも怪訝な表情をしている空を表に連れ出し、乱暴 春原はハンドルを握りながら、空が落としたカラスの羽根のことを思い出していた。 (あれは、俺がエドガー・アラン・ポーの『大鴉』をイメージして作ったワタリガラスの羽根のレプリカだ・・・・ (森崎の持っている本は、俺が知っている人物から譲り受けた物だ・・・古本屋で偶然見つけた物なんかじゃない) 春原は交差点で停車している間に、シガーライターで煙草に火をつけた。隣りに座っていた空は夜の繁華街 「・・・・森崎・・・・お前、『影使い』にでもなるつもりなのか?」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 「言いたくないことがあれば話さなくてもいい・・・・俺は下巻の原稿の内容については詳しくは知らないんだ。何か聞 空はようやく振り返り、眠そうに欠伸をしながら答えた。 「あの人とはもう会う必要はないわ・・・・・ニセモノと会っても意味が無いのよ」 春原の吸っていた煙草の煙が喉に詰まってむせ返った。彼は呆気にとられていた。 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 彼女は本物の安曇恭太郎の素性を知っていた。 (そうだった・・・・自分もまだ彼女を信用していたわけではなかった・・・・・・おそらく森崎空は、こちらが最初から本物の 砂塚町の団地で空を車から下ろした春原は無言のまま立ち去ろうとした。しかし、彼は車を一旦停車させ、考えを巡らし 春原は何かを決意し、車をバックさせると運転席から顔を出し、彼女に向かって叫んだ。 「本物の安曇恭太郎は『カドラプル操影法』を完成させて、その特許を独占しようとしている。つまり、彼にとってお前の存 「森崎、日が暮れてから屋外で実験するな・・・昼間も誰かと一緒にいるんだ・・・お前は頭がいいから、俺の言ってる言葉 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 空は考えていた。 翻訳者の怪しい目的など彼女にはどうでも良いことだった。編集者の春原が翻訳者を擁護するのは当たり前だと思っていた・・・・しかし、春原が嘘をついたのは、安曇恭太郎のためでは無く、森崎空の身の安全を守るためだったのだ。 無愛想で、肝心な点をなかなか口に出さないところは自分によく似ていると思った。 「うん・・・・分かった」 空は、春原に向かって、満足そうな笑みを浮かべると、踵を返して薄暗い団地の闇の中へ走っていった。
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