Chapter6:「亡霊」

「いやぁ、殺さないでぇ」  

庭の方から悲痛な少女の声が聞こえた。

引き戸は施錠され、中には入れない。少女は頼りない力で窓をこじ開けようと必死だった。

部屋の中のカーペットは血で汚れていた。目の前には、両目を潰され、腹の皮が裂かれた仔犬が横たわっ
ていた。隣りの家から連れてきた生後数ヶ月のマルチーズだった。仔犬は目を潰された時に失禁していた。

「こんなに部屋の中を汚して・・・もっと『おしおき』してやるわ」

部屋の中にいたもう一人の少女がセラミック製の包丁を持って近寄ると、瀕死のマルチーズが飛び跳ねて窓際
へ、内蔵を引きずりながら逃げて行った。

「オクーーッ、オクーーーッ、今、助けてあげるわ」

庭にいる幼い森崎空が叫んだ。犬はガラス窓に血で染まった足を何度も擦りつけ、人間のような泣き声で鳴き
出した。視界は失われても、背後に迫る人間の足音は聞こえていた。仔犬はうずくまりブルブル震えていた。

「そうそう・・・あなたは臆病だからオクちゃんなのよね・・・こんな醜い姿になっちゃって、可哀想に・・・・」

少女はそう言いながら、仔犬に向かって、何度も包丁を振り下ろした。

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「ハッ・・・・・・・」

寝室のベッドで目を覚ました水沢玲於奈(レオナ)は、反射的に自分の両手を見つめた。あれから3年も経って
いるのに、まだ自分の手を染めた生温かい犬の血が落ちてないような気がしていた。

部屋の隅に置いてあるペット用のケージからクンクンと双子の犬の鳴き声が聞こえた。玲於奈は起き上がり、
雑種の仔犬の傍に駆け寄って、優しく頭を撫でた。この2匹は元々は捨て犬で、玲於奈が動物愛護セ ンター
から譲り受けてきたものだった。

彼女は丁寧にドライフードをミルクでふやかして双子の仔犬に与えた。

「おはよう・・・朝食が済んだら、散歩に出かけようね・・・・・・」

イギリスから帰国した玲於奈の楽しみは、毎日、飼い犬を散歩させることだった。

寮生活をしている間は動物と触れ合う機会がほとんど無かった。彼女の両親は、玲於奈が犬を飼いたいと
言い出した時に躊躇していた。しかし、溺愛と思えるほど、双子の犬を可愛がっている様子を見て、彼女の
心の病気は克服された、と信じることが出来た。

玲於奈自身も両親が喜んでいる姿を見て、自分は生まれ変わったと思い込んでいた。

たが、それは全て錯覚だった。彼女が過去に自殺を図ろうとした時も必ず「あの夢」が現れた。森崎空の泣
き顔が呪いのように自分を苦しめた。その度に、自分は他人に愛情を注ぐ資格が無い人間だと感じていた。

彼女は勉強机の引き出しから黒いビニール袋を取り出し、白の油性マーカーで「燃えるゴミ」と書いた。

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双子の姉・篠美月が肺の病気を完治して退院した平成二十三年の冬に、妹の篠日出子が失踪した。
警視庁の「播磨山13児童死体遺棄事件」の捜査本部が彼女の捜索の指揮も兼務していた。

美月も毎日、日出子が訪れそうな場所を探し回っていた。別居している父親がオーナーを営んでいる駅ビル
「グリムタウン」の屋上〈スカイパーク〉もその一つだった。彼女は、そこで玲於奈と待ち合わせをしていた。

「・・・・遅いわよ」

息を切らして現れた美月に玲於奈が冷たい口調で言った。

「ごめん・・・ここに来る前に森崎空の家に寄ってたの・・・彼女が何か知ってると思って」

「・・・・・・それで、どうだったの?」

「それが、空の家には、彼女のお婆さんしかいなくて、空はここ数日、一人で山梨県の『青木ヶ原樹海』に行っ
てるそうなのよ・・・・」

「樹海・・・・・・・!?」

玲於奈は腕を組み、眉間に皺を寄せて深刻そうな表情を浮かべた。

「日出子は・・・・・・・もう死んでいるかもしれない」

「え???・・・・何?・・・・・やだ、不吉な事を言わないでよ・・・・」

玲於奈は黙って、美月の背後に向かって指をさした。

「あなたの後ろに立っている、あの気持ちの悪い『影』は何なの・・・・」

美月は驚いて振り向いた。スカイパークには赤頭巾が狼に食べられそうになっている悪趣味なモチーフの彫像
があった。その像に隠れるように、怪しい人影が立っていた。その影は自分のシルエットに見間違うほどよく似て
いたが、彼女の立ち位置から数メートル離れていたので、明らかに自分の物では無い。

「私も初めて見たけど・・・・おそらく、あれは日出子の亡霊よ・・・・半年ほど前に、彼女自身が言ってたわ。森崎
空が怪しい魔法の儀式を使って、死んだ犬の霊を呼び出したって」

「そんな・・・・・魔法なんて、信じられない」

亡霊は二人に気付かれても逃げるわけでもなく、ユラユラとその場に止まっていた。美月は半信半疑だった。
森崎空は自分の肺の腫瘍を消してしまった。主治医は奇跡だと言っていた。彼女が得体の知れない能力を
持っていることは分かっていた。

「死者を呼び出すには、亡骸が必要らしいのよ。つまり日出子が生きていれば、あんな物は現れない」

「魔法はともかくとして、空が日出子を殺すなんてあり得ない・・だって私は、空から貰った薬を飲んで病気が
治ったのよ」

玲於奈は呆れた様子で溜息をついた。

「あなたは学校の成績が良い割りに、本当に騙されやすい性格ね。日出子が変な形のガラスの瓶を持ってた
でしょう?」

「どうして・・・・・・それを・・・・・・・」

「あれは、私の去年の誕生日に、空から直接贈られてきた物なのよ。中に入った薬を野良猫に飲ませたら、翌
日に死んじゃったわ・・・日出子にも空は危険人物だと教えたことがあったの。あのガラスの瓶を見せた時に、
日出子が容器のデザインをやたら気に入っていて欲しがってたわ。中身を捨てる約束で私は彼女にそれをあ
げたのよ」

「つまり・・・毒薬も解毒薬も元々は空が持っていた・・・・・彼女が誰かを殺そうとしていたのは事実よ」

美月は明らかに狼狽していた。

「どうして・・・空は・・・そんなことをするの?」

「さあ・・・・・・? 私には、何かの儀式の『生贄』を探しているようにしか見えないわ・・・おそらく、彼女は最終的
に日出子を選んだのよ・・・・日出子が薬瓶を持っている事にも気付いていた・・・・あなたを助けたのは、このこ
とが騒動になって、本来の計画が失敗することを恐れたからじゃないかしら・・・・」

美月は、空が自分の影を測っていたことを思い出していた。当初は美月自身も空を疑っていた。だが、美月は
自分が苦しみから開放されたことで、毒薬の出所も森崎空であることをすっかり忘れていた。

「私は日出子の居場所の見当がついているわ」

玲於奈は、まるで探偵小説の主人公が謎を解き明かすような口振りで真相を切り出した。

「樹海よ・・・あそこは自殺の名所だし、遺体を捨てれば見つかりにくいわ・・・あなたの周りで起きている不吉な
事件には、全て森崎空が関係してるのよ」

美月はもう一度、日出子の亡霊を確認した。その異様なシルエットは手話で何かを語っていた。

(・・・・ミ・ヅ・キ・・・・・・・タ・ス・ケ・テ・・・・・・)

変わり果てた日出子の姿を見た美月は、あまりの息苦しさに吐きそうな気分になった。

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森崎空が帰ってきたのは翌日の深夜だった。

彼女は、山梨県の大月から、JR中央線の上りの最終電車に乗っていた。都心では上りの最終ダイヤを利用する
者は少ない。空のショルダーバックから明らかに異臭がしていた。彼女は出来るだけ人のいない車両に乗り込ん
でいた。

帰宅ルートも毎日変えていた。最近、彼女は自分を尾行している黒いバンに気がついていた。ナンバープレート
を貼り替えていたが、空が目印の引っ掻き傷を付けていたので、それらが全て同じ車だということが分かった。

彼女は団地の入り口から駐車場を覗き、黒いバンの姿が無いことを確認すると、団地の敷地内を走り抜けて行っ
た。自宅の玄関まで外灯の光が届かない暗闇の通路があった。その植え込みの影から、突然、アイスピックを持っ
た不審者が空に襲いかかってきた。

空は外灯のある駐車場まで退くと、不審者の姿を確認することが出来た。暴漢は篠美月だった。彼女は空を駐車場
のフェンスに追い詰めると

「日出子を返せ!」

と言ってアイスピックを振り下ろした。空はショルダーバックを盾にして、それをかわした。美月がバックの異臭に顔を
背けた瞬間、空は彼女の腹部を足で蹴飛ばした。仰向けになって転倒した美月の手からアイスピックが転げ落ち、
二人はビーチフラッグの決勝のような勢いで凶器を奪い合った。だが、最終的にアイスピックを手にしたのは美月の方
だった。彼女は不様に転倒している空に凶器を振りかざした。空は観念して目を瞑った。その時、何者かが美月に体
当たりしてきて、彼女の身体は1メートルほど突き飛ばされた。

彼女の目の前に現れたのは、体高70cmを越える狼のような犬だった。

その犬は、サーロス・ウルフボンドと呼ばれる狼とシェパードの血を引く雑種犬だった。美月を噛み殺しかねない勢いで唸り声を上げていた。美月はその犬に見覚えがあった。日出子が飼いたがっていたあの仔犬だ・・・彼女の頭の中で悪夢のような記憶がフラッシュバックした・・・我に返った時、美月の戦意は完全に喪失していた。

犬が美月に襲いかかろうとした時に空が叫んだ。

「やめなさい、オク!・・・彼女は敵じゃないわ」

空は立ち上がり、呆然と座り込んでいる美月を見下ろした。その場を立ち去ろうとした時に、美月の影が2つあることに
気付いた。

「これは・・・・・・・・・・」

空の全身の毛が逆立った。彼女は放心状態の美月の胸ぐらを掴んで詰問した。

「この影はいつ現れたの!?・・・・影が現れて何時間経った?・・・・答えなさい、篠美月!!」

「日出子は・・・死んじゃったの・・・・・私が見捨てたのよ」 美月は空の質問に答えても意味が無いと思った。

苛立ちを隠せない空は、駐車場にアイスピックでサークルを描き始めた。美月の周囲にもサークルを描き、そこから数メートル離れたサークルに、Y字型に作った木の枝を突き刺した。彼女が楔(くさび)と呼んでいる木の枝は、影を拘束する力を持っていた。彼女は、日出子の浮遊する影をそのサークルに引き寄せ、可視化された影の構造を調べ始めた。

美月は狼のような犬がいつの間にかいなくなっていることに気がついた。昼にここを訪れた時も、駅から空を尾行していた時も、あの犬の姿は見えなかった。一体、何処から現れたんだろうと不思議に思っていた。そこへ、空が近寄ってきて、アイスピックを差し出した。

「これ、返しておくわ・・・何を勘違いしてるのか分からないけど、私は誰も殺してないし、日出子もまだ生きている筈よ」

「え・・・・・・?」

「彼女は生きたまま、影を切断されたのよ。日出子は遠方に隔離され、何かのミスで影の楔が外れた。だから、日出子の
影は帰巣本能で自宅に向かい、日出子より近い距離にいるあなたを宿主と勘違いしたの・・・・そもそも死者の影は
生前の意思とは関係ない日常の行動パターンしか再生しないのよ。特定のメッセージを伝えるようなことは出来ないわ。
意志力
の存在は、彼女がまだ生きている証拠よ」

「でも、時間が無い・・・生きている人間の「分影」にはリスクが伴うの・・・影を切り離したまま生活していたら、数ヶ月で
宿主は確実に死亡するわ・・・・・これから日出子を探し出すわよ・・・・・勿論、協力してくれるわね、美月?」

美月は震えていた。自分は玲於奈に騙された・・・彼女は何のために、あんな嘘をついたのか・・・・・・。

森崎空はそれを察したように、立ち上がろうとしない美月に手を差し伸べた。しかし、美月はすぐにそれに応えようとはし
なかった。

「空・・・・一つだけ教えてくれる?・・・あなたは、何故・・・・「毒薬」なんか持ってたの?」

空は迷うことも無く、影を見つめながら言い放った。

水沢玲於奈を殺すためよ・・・彼女が生きている限り、必ず誰かが犠牲になる・・・あの子は特別な方法で呪い殺さなければいけないの・・・それに・・・・そうしないと、私の気が済まないのよ」

美月は、空が正直に本音を語っていると思った。だが、その時の彼女は何かに取り憑かれているようにも見えた。

 

Chapter7へつづく

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