Chapter8:「ハギト」

安曇恭太郎の飼い猫ハギトが死んだ。

病名は急性腎不全、白・茶・黒の三色の毛並みのバランスが良い生粋の日本猫だった。

「彼」は飼い主の少年より先に生まれ、いつも思慮深そうな表情をしていた。

恭太郎は愛猫の影を再生していた。彼の入院中にハギトが自宅のリビングで息を引き取った為、臨終の瞬間
に立ち会えなかったのだ。猫の影の寿命は一週間程度だったが、彼は一日でも長く兄弟のように暮らしてきた
猫と一緒にいたかった。

猫の影を見た大人のほとんどが驚いたり、気味悪がった。しかし、生前の姿を知っている者は、「あれは、いい猫
だった」 と懐かしがった。三毛猫のオスが生まれることは珍しいようで、ハギトは近所でも評判の人気者だった。
恭太郎はそれが自分の事のように嬉しかった。

病院の理事長で、安曇家の後見人でもある長嶺に何度も注意されたが、彼はハギトの影と一緒に広い病院の中
を毎日探険した。生きている時のようにあちこち気まぐれに走り回っていた影も、その姿が薄くなって消えかかると、
恭太郎の傍を片時も離れなかった。

ある病室で、愛猫との本当の別れの日が来た。

恭太郎は「彼」が亡くなった時に夜通し泣き続けたが、今日は泣かなかった。ハギトは本当にいい猫だったのだ。

「さよなら・・・ハギト」  

影は何度も恭太郎のパジャマの足元に頭を擦りつけながら消えていった。

その様子をベッドで眺めている少女がいた。彼女は耳が不自由で、恭太郎とは彼のスケッチブックを使って会話
をしていた。その部屋は、かつて隔離病棟の保護室だったが、現在は別の用途で使われていた。
鉄製の入り口
の扉は施錠されていなかったので、恭太郎は自由にその部屋に入ることが出来た。

彼女は、薬物によって感情がコントロールされていた。記憶が曖昧で自分の名前すら思い出せなかった。ある日、
少女は
スケッチブックに、ミミズが這ったような字で(みづきたすけて)と書いた。恭太郎は、その意味を質問した。
しかし、彼女はかぶりを振って、自分の書いた文字を不思議そうに眺めていた。彼女が普通の病人で無いことに
恭太郎は気付いていた。その少女には影が無かったのだ。

恭太郎は保護室の監視カメラに背を向けるような位置に立ち、スケッチブックに書いた文字を少女に見せた。

(ここから出してあげようか?)

少女は、その部屋から出るべきなのかどうかも判断出来なかったが、目の前にいる少年がその答えを知っているよ
うな気した。彼女はスケッチブックに描いてあるハギトの絵を見つめながら無言で頷いた。

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森崎空が目を覚ましたのは、その日の深夜だった。

空は自分が何故、病院のベッドに寝かされているのか、すぐには事態が呑み込めなかった。身体を起こすと、付き
添い用のソファーで毛布に包まって横になっている祖母の姿が見えた。窓際のパイプ椅子には、ペンライトを使って
読書をしている春原が座っていた。

「影は・・・・日出子の影は・・・・???」

思わず空は言葉を漏らした。春原はそれに気付くと、軽く両腕を伸ばしながら、ベッドの傍らに近付いて来た。

「よう・・・目が覚めたか?・・・・不良小学生」

「私は、助かったの?」

「頚部捻挫に腰部打撲で、全治2週間・・・・・・心配するな、軽傷だ」

空は首に頚部固定用のシーネが巻かれていることに気が付いた。春原と会うのは半年ぶりだった。最後に会った
時に、空は色々と忠告されていたことを思い出していた。

「私は・・・・春原との約束を守らなかった・・・・・・怒ってないの?」

春原は、影の追跡に失敗し、悔しそうにうなだれている空の様子を見て、笑いながら答えた。

「何だ?怒って欲しいのか?・・・俺はお前の保護者でも無いし、学校の先生でも無い・・・他人の子供に説教するよ
うな親切な大人じゃないんだ・・・まぁ、お前のやったことは自業自得だ。俺の忠告を黙って受け入れるほど、素直
な性格じゃないことは最初から分かってたよ」

春原は調子に乗って、彼女の追跡行動がいかに間抜けであったかを説明し始めた。空は段々腹が立ってきて枕を
春原に投げつけた。

「ふん・・・・その様子なら、すぐに退院出来そうだな。お前より昼間に見舞いに来た子の方が具合悪そうだったぞ
・・・・真っ青な顔で「自分のせいだ」って、何度も繰り返して、ガタガタ震えてたな」

「美月・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「彼女から大まかな経緯は聞いたよ。この病院の関係者に会って調べてやるから、お前はここで大人しく寝ていろ」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「近いうちに警察が事情聴取に来る。お前を襲った男の一人が、ガソリンの使い方を誤って炎に巻き込まれたらしい
・・・・いいか・・・・担当官には篠日出子の影を追跡していたことは黙ってるんだ・・・」

「日出子はこの病院の中に必ずいる・・・・・今すぐ警察に連絡すべきだわ」

空はベッドの脇の棚の上にある日出子の携帯電話に手を伸ばした。春原がそれを見てかぶりを振った。

「お前なぁ・・・・・政府機関の中に、安曇恭太郎の研究開発を支援してる者がいる、と考えたことは無いか?」

「え??・・・・・・・まさか・・・・・・」

「「操影法」が完成したら世界の外交のルールが全て変わる。お前が手に入れようとしている物はそれぐらい危険な
脅威を持っている技術なんだよ」

「播磨山の遺体遺棄事件もまだ未解決だったな・・・検察は司法解剖後に子供に薬物が使用されていたことや、身体
の一部が死亡する前に壊死していたことなどを一切公表していない・・・人体実験を匂わせる情報が全て隠蔽されてい
るんだ・・・・・おそらく、この件には、公安調査庁の幹部も関わっている・・・・・・」 

「春原は・・・・・・・どうして、それを知っているの?」

春原は少し躊躇っていたが、空には真実を伝えるべきだと思った。

「・・・・・・・・安曇の研究施設から、子供の遺体を運び出したのは俺なんだよ」

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翌日の早朝に、空は病室を抜け出していた。

春原の話では、昨年の中頃まで、この病院の中に安曇の「研究棟」があったらしい。研究グループの内部に妨害
者が現れたことで、研究施設が何度も移転され、その所在がグループの中でも分かりにくくなっていた。

妨害者の正体は、春原透だった。

彼は、「操影法」の研究の為に生体実験が行われているという噂を聞きつけ3年ぶりに、安曇恭太郎と再会した。
春原は安曇の研究施設で子供が監禁されていることを知り、わずかに生き残っている子供への実験を阻止する為
に匿名で警察へ通報した。しかし、安曇は逮捕されず、実験は続けられた。その結果、13人の子供が犠牲になった。

春原は、首を切断されて山中に埋められる予定だった子供の遺体を乗せた軽トラックを奪い、この異常な犯罪行為を
世間に公表する為に、わざと丘陵地の公園に死体を遺棄したのだ。

マスコミ各社に事件の詳細をリークすることも出来たが、一方で春原は「操影法」の存在を封印しなければならない
立場にあった。世間ではカルト教団の犯行説が有力視されたので、彼はそれで良いと思った。内部に妨害者がいる
ことで、安曇の研究は沈静化する・・・・安曇の目的は殺人ではない、彼は実験動物を別の哺乳類に代替出来ない
か検討し始めていた。

空が安曇に会おうとしていたのは、その頃だった。春原がニセモノを使ってまで、空と安曇を会わせなかったのは、
そういう事情があったからだ。

しかし、再び少女が拉致され、人間を使った実験が再開された。

空は思った。例え日出子がこの施設の中にいても安全とは限らない・・・監禁場所も移動されたかもしれない・・・・
春原の指示を大人しく聞いて、病室で寝ている場合では無いのだ・・・・・・

彼女は老人のように腰を抑えながら、ふらふらと各棟の廊下を歩き回っていた。

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午後になり、空はエレベーターホールで、偶然、玲於奈と鉢合わせした。玲於奈は腰を曲げながらホールをうろつ
いる空に気付いていたようだった。玲於奈は無表情のまま「チッ」と舌打ちした。

空は腰を抑えたまま、玲於奈を睨みつけてやろうと思ったが、頚部が固定されて首が回らなかった。何と言う不様な
姿を宿敵に見られてしまったんだろう、と空は自分の運命を呪いたくなった。疫病神のような女が病院へ何の用で現
れたのか・・・・・綺麗な花を持っていたが、少なくとも自分のお見舞いで無いことだけは確かだ。

ようやく、身体の向きを変えて、空は玲於奈の後姿を見ることが出来た。つい最近、そのすらりと伸びた足を何処か
で見たような気がした。だが、どうしても思い出せなかった。

玲於奈は廊下のネームプレートを見て歩き、小児病棟の一番奥にある病室の中へ入っていった。空は、彼女の行き
先が気になり、そ
の部屋の前まで移動して患者名を確認した。そこには「安曇恭太郎」と書いてあった。

えっ!?」

空は目を疑った。悪質な悪戯だと思った。

しばらくして、部屋の中から玲於奈が飛び出してきた。廊下で動けなくなっている幼なじみには目もくれず、エレベー
ターホールへ走り去った。空は一瞬呆気に取られたが、無理に腰を伸ばして、その部屋の中へ入っていった。

「日出子!・・・日出子はここにいるの?」

部屋の中には朦朧とした表情の少年が鼻歌を歌いながら、玲於奈が持ってきたマリーゴールドの花びらをちぎって
いた。床の四方には50色のクレパスが散らばっていた。

安曇恭太郎は・・・・・・あなたなの?」

そんな筈は無い。『影の構造』は20年前に出版された本なのだ。翻訳者がこんな幼い少年であるわけが無い。少年
は天井を見上げながら笑顔で答えた。

恭太郎はね、僕が入院している間に死んじゃったんだよ・・・・・影が消えて無くなるまで、頭の手術の日を延ばして
もらったんだ・・・・でも、その前に行かなくちゃ・・・・・耳が聞こえないあの子と・・・・・この建物から出ようって約束した
んだ・・・・・」

「あの子って・・・日出子のこと?・・・・そうなのね?・・・・・あなたは一体、誰なの?」

「僕は・・・・・僕は・・・・・ハギトだよ」

悪性の脳腫瘍で記憶障害になっていた少年はその場に倒れ、絶命した。

 

Chapter9へつづく

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