Chapter9:「逃走」

今年で二十歳になる稲森妙子は、舞台女優を目指していた。

彼女は幼少の頃に、大阪で公演されたミュージカル「アニー」を見て以来、舞台の主人公に憧れ、女優の道を
志していた。高校を卒業後、出身地の鹿児島から上京して、多摩地区にある劇団「野火止スプラッシュ」に入団
した。そこは、不条理劇からコメディ、子供向けの着ぐるみ人形劇など幅広い公演活動をしていて、著名な俳優
も所属していた。妙子の素朴な容姿から子供向けの芝居を演じることが多かったが、彼女にとっては、どんな役
でも舞台に立てるだけで楽しかった。

しかし、悩みもあった。それは、舞台のギャラが安いことだった。小劇場の役者のギャラは1ステージごとの歩
合制で稽古の期間は無給なのだ。彼女の貯金は半年で底を突き、アパートの家賃を支払うと生活費がほとん
ど残らなかった。食費を切り詰めて生活していたら、大晦日の舞台の上で貧血で倒れてしまった。このままで
は、仕事を続けることが出来ない・・・彼女は年が明けてから、パートのアルバイトを探すようになった。

幸い、彼女の生活圏内にある大きな病院で臨時のアルバイトを募集していた。彼女の仕事は、ある保護室に
隔離されている少女の様子を監視カメラを使って別室で記録する、という奇妙なものだった。少女は耳が不自
由という点を除けば、健常者と変わらない生活をしていたので介護をする必要はほとんど無かった。

その部屋は鉄製の扉が付いていたが、施錠はされておらず、少女は部屋から出ることが可能だった。でも、
彼女は入浴と排泄以外にベッドから離れることは無かった。部屋の中には、テレビが置いてあって、少女は
動物が主人公のアニメやドキュメンタリーを好んで鑑賞していた。

最近になって、他の病棟からパジャマ姿の少年が訪れるようになったので、妙子はすぐに雇い主に報告した。
部屋の中に入ることが許されているのは、少女の食事や着替えなどを運ぶ時だけだ。彼女を保護室から連れ
出すことは固く禁じられていた。しばらくして、インターホン越しに「少女が部屋から出る様子が無ければ放置
して良い」という返事が来た。

妙子は、自分の仕事に対して疑問点が多かった。少女の名前も分からなかったし、影が無いことも気になった。
でも、細かいことは考えないようにしよう・・・近所のスーパーの2倍の時給が貰えるので、このバイトをクビにな
るようなミスを犯してはならないのだ。彼女は、与えられた仕事を完璧にこなし、いつまでもこの仕事が続けら
れることを望んでいた。

アルバイトを始めて17日目に、彼女の仕事を脅かす事件が起きた。

監視モニターに、見慣れない学校の制服を着た背の高い少女が映っていた。侵入者は明らかに、保護室の
少女を部屋の外に連れ出そうとしている。妙子は慌てて監視ルームを飛び出した。

「待ちなさい!・・・あなた、何をしているの!?」

玲於奈は、追手に気付いて一瞬立ち止まった。別室から出てきたその女は、猫背で身長が小学生並みに低
い。くたびれたパーカーを着ていて、髪型もイマイチだと思った。

「その子を部屋から出さないでよ!・・・・その子がいなくなると・・・・・私が困るのよ」

追手の態度は、叱るような口調ではなく、むしろ懇願しているように思えた。玲於奈は、その女を無視して、億劫
そうな態度の日出子の腕を引っ張って走り出した。

「あ・・・・待って!」

妙子は追いかけようとしたが、保護室から焦げ臭い匂いがして立ち止まった。開いている扉から煙が上がってい
る。彼女は監視ルームから消火器を持ち出し、室内に向かってに噴霧した。保護室の火が消えかかった頃、廊下
の後方のドアが開き、今まで会ったことが無い無精ひげの中年男が現れた。

「おい、どうしたんだ?・・・・女の子は何処にいる?」

妙子は観念した・・・・これは「クビ」確定だ。彼女は肩を落として、監視していた子供に逃げられた事を報告した。

「君が新しいパートの監視員か?・・・彼女は早急に保護しないと命に関わるんだ・・・一緒に探してくれ!」

妙子は戸惑っていたが、給与の保障をすると言われ、ようやく気を取り直して男の指示に従った。

子供たちが出て行った非常口の外は、患者のシーツやオムツを回収するリネンサプライ業専用の駐車場だっ
た。春原はアルバイトの女性と一緒に辺りを探し回った。病院の外にも監視カメラがある。長嶺から連絡が無い
ので、まだ遠くへは行ってない筈だ。

「あそこよ!」

春原が振り向くと、エンジンがかかったまま駐車していたワゴン車が急発進した。

ワゴン車は蛇行しながら公道に飛び出し、更にスピードを上げて走り出した。病院の周りは田畑ばかりで見渡しが
良い。春原は妙子に、その場で車の行方を見ているように指示すると、自分の車が停めてある駐車場エリアへ全
速力で駆けていった。

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「安曇家はもうおしまいだ・・・・・」

霊安室の前にあるソファーに座って長嶺洋一は頭を抱えていた。

「・・・・・・・・・・・・・・・・」

空は怒っていた。人を欺くゲームにしては度を越している。空の目の前で死んだ少年の名前は「萩人」だった。
それが、何故「恭太郎」の名前になっていたのか?・・・かつて自分を騙そうとした老人を尋問する為に
少年の遺体が運ばれる様子を見張っていたが、長嶺の落胆ぶりは演技では無いように思えた。彼は少年の遺
体の前で声を上げて泣き始めたのだ。空は少し気の毒になって、何も言わずソファーの隣りに座っていた。

やがて、長嶺の方から重い口を開いた。

「空さん・・・今回の件は私が仕組んだ事ではありません。私は・・・あの子が「恭太郎」の名前を使う事に反対でした。
彼は記憶障害の症状が表れるようになってから、自分の名前を「恭太郎」、近所の猫の名前を「ハギト」と思い込む
ようになったんです・・・」

「彼は何かに憑かれたかのように、自分の名前は「萩人じゃない」と言い張りました。無理やり言い聞かせようとした
ら、奇声を上げて抵抗するので、彼の担当医と相談した結果、「恭太郎」名義で入院させることになったんです。
出来るだけ彼にストレスをかけないように、看護士たちにも事情は説明してあります・・・」

「猫の名前が・・・・「恭太郎」ってこと?」

「いいえ・・・彼が「ハギト」と呼んでいたのは、安曇家の裏庭によく姿を現していた野良猫です。名前なんかありませ
んよ。容姿が醜くて、薄汚れた「黒猫」でしたが、萩人君はとても可愛がってました。彼は、とても心の優しい子だっ
たんです・・・でも彼が入院してから間も無く、あの猫は車に轢かれて死んでました。ビニール袋に入れられていた
から、多分、近所の子供の悪質なイタズラだったんでしょう・・・」

空の表情が一瞬、険しくなった。

「萩人君は入院してからも、あの猫に会おうとして病院を抜け出した事がありました。私はやむを得ず、適当な病名
を付けて、猫は老衰で死んだ、と言いました。実際にあの猫は年老いた猫でしたからね・・・私は萩人君が不憫に思
えてしようが無かった。あなたは見てないと思いますが、私は死んだ猫の影を再生しました・・・・・・彼は・・・・・・病気
のせいかもしれませんが、影を見ても全く驚かず、可愛がっていた猫との再会をとても喜んでました・・・」

「・・・・・・・・彼が、自分を「恭太郎」と思い込んだのは何故?」

「それが・・・・正直言って、私にもよく分からない・・・あなたが探している安曇恭太郎は彼の親戚にあたる者なんです
が、幼い頃から離れて暮らしているし、事情があって、彼の存在は萩人君には知らせてません。彼らに家系以外の
接点は考えられませんよ」

空は立ち上がって、長嶺を見下ろした。

「また、私を騙そうとしているの?・・・・あの子は日出子の居場所を知っていた。日出子は誘拐され、影も失ってしまっ
たわ。それがどういう結果になるか、あなたは分かってる筈よ・・・みんなグルになって安曇恭太郎を庇っている・・・・
彼女を何処に隠してるのよ!?」

「いや・・・その・・・・空さん、私の立場は基本的に春原君と同じなんだ。人間を「操影法」開発の実験に使うことは、
最初から反対している。子供の誘拐や殺人は安曇君のチームが独断で行っていた事なんだ。大勢の子供が犠牲に
なったあの忌まわしい実験が発覚してから、彼に「操影法」が完成するまで人体実験は行わないと約束させた。彼も
全ての仕事が完了したら、自分の罪を償う事に同意している・・・彼もこの研究は命懸けのリスクを負っているんだよ」

空は長嶺のステッキを取り上げ、彼の喉元に突きつけた。

「安曇の事なんかどうでもいいわ・・・・篠日出子に今すぐ会わせなさい」

長嶺は、空の脅しに動じることはなかった。影を失った人間は放っておくと必ず数ヶ月で死亡する。彼女の延命治療
を中断して解放する行為は、かえって死期を早める事になるのだ。

「空さん、あなた腰を痛めているんでしょう?・・・あまり無理をしないで大人しく静養して下さい。日出子さんの事は
私と春原君が最善を尽くして対処しますから・・・」

その時、長嶺の携帯電話が鳴った。長嶺は目の前の空を相手にせず、通話ボタンを押した。

「長嶺だ・・・稲森君、ワゴンは見つかったか?・・・・・そこに春原君もいるのか?・・・え?・・・・何っ!撃たれた?
・・・・一体、誰が撃たれたんだ!?」

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ワゴンは貯水池の手前にあるT字路のカーブを曲がりきれず、大量のシーツを撒き散らして横転していた。

春原は、その場所の近くに自分の車を停め、立ち入り禁止の柵がある茂みの中へ入っていった。この奥には着工
途中で放置されている橋梁があった筈だ。隠れて逃げる為には、貯水池を横断して奥の森に入ろうとするだろう。
春原の読み通り、二人の少女は、橋を横断しきれずUターンして戻ってきた。春原が玲於奈と対面したのは、その
時が初めてだった。玲於奈は歩み寄ってくる追手の姿を見つけると、橋の中央で足を止めた。

「おい!こっちへ来い。病院へ戻るんだ」

春原の後の茂みから妙子が現れた。妙子は長嶺に連絡すべきかどうか迷っていた。彼女の臆病な性格から、出来る
だけ穏便に元の状態に戻したいと思っていた。

「その子を屋外に出してはいけないんだ・・・俺たちは誘拐犯じゃない・・・君と同じ学校の生徒、森崎空の知り合いだ。」

「ふんっ、空の知り合いなら、ますます信用出来ないわ・・・それ以上、近づくとただじゃ済まないわよ!」

玲於奈は懐からダガーナイフを取り出し、日出子の首に押し当てた。どっちが誘拐犯なんだ、と春原は呆れたが、彼
は、この気の荒い少女を粘り強く説得しようと心掛けた。ナイフを持った少女は興奮していて何をしでかすか分からない。
それぐらい鬼気迫るものがあった。春原が慎重に橋に近付いて行った。すると突然、茂みの中から発砲音が鳴った。

玲於奈の身体が大きく揺れ、手摺の無い橋から20メートル下にある貯水池へ落ちて行った。

日出子が橋の下を見ながら奇声を上げていた。彼女の感情を抑える薬が切れたようだった。

春原の脇をすり抜けるようにして、白衣姿の若い研究員たちが橋を渡って行き、今にも橋から落ちそうなほど暴れてい
る日出子を取り押さえた。春原は、振り向いて玲於奈を撃った人物を鋭く睨みつけた。

「やれやれ、こんな所にいたのか・・・・あまり、僕の研究の邪魔をしないで下さいよ、春原さん」

そこには狩猟用ライフル「アーマライトAR7」を構えた安曇恭太郎が立っていた。

 

Chapter10へつづく

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